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もう「仮りの名」と書くのはやめよう
和字書体の歴史
第 1 回 ひらがなとカタカナ

※和字書体の分類名は私案です。また古代種族の倭、熊襲、蝦夷とは関係ありません。

一 ひのもと体(本様体) *和字のローマン体/楷書体

 国語科書写において「漢字の楷書と調和する仮名」と表記されている和字書体を「ひのもと体」もしくは「本様体」ということにします。本様とは「基本的な様式」という意味があり、世阿弥著『風姿花伝』には「これ即ち能の本様と心得べき事なり」という用例があります。ほかに「和字のローマン体」あるいは「和字の楷書体」といういいかたもあります。
 和文系統の文章がひらがな漢字交じり文で記述され、和様体・御家流で書写されたのにたいし、漢文系統の文章は漢字カタカナ交じり文で唐様・楷書体で書写されていました。楷書体に調和するということは、漢文系統の文章である漢文訓読文のカタカナ書体にあわせてひらがな書体が形成されていったと考えられます。
 ひのもと(本様)体は、漢文体系統・漢字カタカナ混じり文の「カタカナ」にたいして「ひらがな」の書風をあわせたものをさすことにします。その筆法はカタカナと同じように打ち込みをもっています。

1 漢文体・東鑑体・宣命体

 奈良時代には漢文体、漢化和文体、宣命体が見られます。純漢文体とは中国語の文法にしたがって漢字・漢語で書かれた文章様式です。漢化和文体とは東鑑あずまかがみ体ともいい、漢字だけをもちいた和文で書かれた文章様式です。敬語の使用、日本語の文法による語序、助字を利用しての助詞の表記などの特徴が見られます。また宣命せんみょう体とは、体言や副詞・接続詞・連体詞・用言の語幹は訓読みの漢字で大きくしるし、用言活用語尾・助動詞・助詞などは真仮名(万葉仮名)で小さく右下によせて書く体裁の文章様式です。
 漢文体の印刷物としては奈良時代の称徳天皇(718―770)の発願による『百万塔陀羅尼だらに』や、平安時代中期の藤原道長(966―1027)の時代に起こった『摺経すりきよう』があります。いずれも唐や宋の影響を受けたものだが、祈願や供養のためのものだったと考えられます。 宋代には木版印刷の書物が隆盛をきわめており、わが国にも多くの刊本がもたらされたと思われます。わが国でも鎌倉時代後期から室町時代にかけて仏教寺院を中心に木版印刷による版本の量産が盛んになりました。
 平安末期から鎌倉期にかけて奈良の興福寺で刊行された経典類を春日かすが版といいます。春日神社に奉献されたものが多いところからきた名称で、ひろく奈良の諸寺で開板された版本の総称としてももちいられています。 高野山金剛峯寺で出版された仏典の総称を高野こうや版、比叡山延暦寺や門前の書店から刊行された仏書・漢書の総称を叡山えいざん版といいます。
 禅宗寺院では中国語がつかわれ、漢文で文章をつくる機会も多くなったため、宋や元の刊行物の覆刻かぶせぼりも盛んに行われるようになりました。禅僧も、蘇東坡や黄山谷の詩作を学んでいたようです。京都や鎌倉の禅宗寺院によって刊行された禅籍・語録・詩文集・経巻などの木版本を五山版ごさんばんといいます。京都五山とは京都にある臨済宗の五大寺で、南禅寺を別格とし、その下に天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が位置します。鎌倉五山とは鎌倉にある臨済宗の五大寺で、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺をさします。
 安土桃山時代の文禄勅版・慶長勅版、あるいは伏見版・駿河版といった木活字もしくは銅活字による印刷物も漢文で書かれたもので、その書体は元や明の出版物を覆刻したものでした。これらはいずれも漢文によって書かれたものです。

2 カタカナ宣命体・漢字カタカナ交じり文

 平安時代になってカタカナが誕生すると、新たに「カタカナ宣命体」が成立します。カタカナ宣命体とは、形式上は前代の宣命体の真仮名(万葉仮名)の部分がカタカナになった体裁の文章様式です。 鎌倉時代になると、奈良時代からの純漢文体や漢化和文体、平安時代からのカタカナ宣命体のほかに、あらたに成立した和漢混淆文体が書かれています。和漢混淆文体とは和文の要素と漢文訓読語の要素を合わせもつ文体です。鎌倉時代には、漢字カタカナ交じり文とともに、すでに漢字ひらがな交じり文もあらわれています。

3 漢字ひらがな交じり文

 和文体系統のひらがな漢字交じり文の漢字が御家流で書かれたのにたいして、漢文体系統の漢字カタカナ交じり文の漢字は真書体(楷書体)系統で書かれました。文学関係の書物は和文体系統でしたが、仏典や、漢学(儒学)・洋学(蘭学)・国学などの学術関係の書物は漢文体系統でした。印刷物における漢文体系統のカタカナがひらがなにかわるのは本居宣長らの国学者によるものだと思われます。

二 やまと体(和様体)  *和字のイタリック体・スクリプト体/行書体・草書体

 国語科書写において「漢字の行書と調和する仮名」と表記されている和字書体を「やまと体」もしくは「和様体」ということができると思います。やまと(和様)体は、和文体系統・ひらがな漢字混じり文の「ひらがな」にたいして「カタカナ」の書風をあわせたものです。ほかに「和字のイタリック体・スクリプト体」あるいは「和字の行書体・草書体」というかたもあります。
 和様とは日本風の書体のことで、本来はひらがな漢字混じり文で表記されており、漢字・ひらがなをふくめて「和様」なのですが、とくに和字──ひらがなとカタカナ──を「和様体」ということにします。

1 真仮名(万葉仮名)の成立

 漢字をかりて音節文字として使用した臨時の文字を「仮名かな」といいますが、真書(楷書)でかいたとき「真仮名まがな」あるいは「万葉仮名」といいます。奈良時代には、日本語の文法に従いもっぱら真仮名(万葉仮名)・和語だけで書かれた文章様式である「仮名文体」で書かれました。

2 草仮名への変化

 真仮名(万葉仮名)は真書(楷書)で書いたものですが、これを草書でかいたものを「草仮名そうがな」といいます。その初期資料としては867年(貞観9)の『有年申文ありとしもうしぶみ』があります。

3 ひらがなの成立

 平安時代初期には、草仮名をさらに書きくずした「ひらがな」が成立しました。ここにいたって、真書の借用、草書の借用といった段階を脱して、新しい文字体系としての「ひらがな」が確立したのです。日本語の文法に従い、ひらがな・和語を主として、わずかに漢字・漢語をまじえることのある文章様式を「和文体」といい、この系統の文章を「和文体系統」といいます。
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 なお、現行の字体は1900年(明治33)の「小学校令施行規則」で定められたもので、それ以外の字体を「ひらがな異体字」とよぶことにします。
 やまと(和様)体にはカタカナは存在しませんが、文章中の漢字の部分から類推することができます。もともとは連綿で書かれていたので、連綿を意識したスタイルとなっています。

三 くまそ体(時様体)  *通称ゴシック体/和字のサン・セリフ体/隷書体

 国語科書写にはありませんが、「漢字の隷書と調和する仮名」に相当する和字書体を「くまそ体」もしくは「時様体」と呼ぶことにします。時様とはその時代のはやりの風習という意味があり、織田純一郎訳『花柳春話』には「衣服欧州大陸の時様を帯び」という用例があります。すなわち明治時代以降にヨ―ロッパの影響をうけて成立したとみられる新様式の書体ということをあらわします。ほかに「和字のサン・セリフ体」「和字のゴシック体」、あるいは「和字の隷書体」といういいかたができます。
 明治時代以降にアメリカからの書体「gothic」の影響をうけて制作されたとおもわれる新様式の書体で、和字書体の第三の系統が誕生したのです。この和字書体は、水平垂直を基本とした筆法に特徴があります。カタカナ「ロ」を例にすると、横線が右上がりにならないで水平になっている。水平垂直を基本としたひらがなの制作は、漢字の一部分をとったカタカナよりも完成が遅れたようです。漢字書体とともにゴシック体と呼ばれていますが、和字書体としては「くまそ(時様)体」という呼称を提案します。
 和字書体としてはその起源となるような文献はありませんが、欧字のサン・セリフ体、漢字の隷書体に影響されて設計された活字書体であることにまちがいありません。やまと(和様)体やひのもと(本様)体とは逆に、活字書体から書写へと展開されていったのです。しかしながら、その活字書体は書写としての運筆が強く意識されており、その成立過程においては書写から彫刻をへて活字書体へと定着していった過程をうかがい知ることができます。

第 2 回 やまと体(和様体)──写本系統

【国風文化】写本

 菅原道真の建白により894年に遣唐使が廃止されると、中国文化の受容がとだえ、わが国独自の文化の発達がみられるようになりました。これを国風文化といいます。
 奈良時代には、貴族社会の知的活動は中国の古典を読み漢文を作ることが中心で、真仮名で書かれた『万葉集』にしても宮廷の主流ではありませんでした。ところが和字が成立すると貴族たちの間に和歌への関心がうまれ、和歌による社交が流行し始めたのです。紀貫之らによって『万葉集』につぐ勅撰和歌集である『古今集』が撰進されました。
 国風文化の中心は和字の成立であり、和語と和文で作られた国文学が平安時代の文化の機軸でした。紀貫之の『土佐日記』は和文の文学作品の先駆となり、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』など女性の手になる国文学の傑作が生まれました。
『古今集』や『和漢朗詠集』などの写本が多く残されており、多くの能書家が活躍したことがうかがえます。その象徴が藤原行成で「行成様」ともいわれます。行成が書いた和字は存在していませんが、行成の子孫によって継承された書法の流派を「世尊寺流」といいます。
 京都市上京区芝大宮町・五辻町・紋屋帳・聖天町・伊佐町・硯屋町・樋之口町の一帯は、藤原行成の邸宅である桃園第とうえんだいがあったところで、行成はここを世尊寺せそんじという寺にしていました。現在ではその面影はまったくありません。
  御物・粘葉本『和漢朗詠集』(1013?)  活字書体「あけぼの」

【鎌倉文化】写本

 鎌倉幕府が成立すると、政治権力は鎌倉に移動して京都は文化の担い手としての公家の都となり、また高度な技術を伝える職人の町にもなりました。公家はその文化面の専門性をたかめて武家に対抗する権威をもとうとし、それを家業として受け継ぐようになったのです。
 公家文化を代表するもののひとつに和歌があります。さまざまな機会に歌によって勝ち負けを競う「歌合わせ」が催されましたが、その判定をくだす審査員は、深い知識をもった専門歌人であることが条件となりました。
 書写では藤原行成の子孫による世尊寺流とともに、藤原忠通を祖とする法性寺流が流行しました。それぞれが流派として継承されましたが、書風として同じ系統だとは見なしがたく、統一されたものではありません。
 鎌倉時代(1192―1333)を代表する書風は法性寺流ですが、藤原俊成も藤原定家(1162―1241)もこれを踏襲することはなく、それぞれが個性的な書風を確立しました。俊成書風は一代限りでしたが、定家書風は茶人の間で愛好されて「定家様」といわれます。
 藤原定家の墓所は京都市上京区にある相国寺にあります。また右京区には定家の山荘跡で小倉百人一首発祥の地とされる厭離庵えんりあんがありますが、現在は公開されていません。
  御物・藤原定家筆『更級日記』(1230?)  活字書体「やぶさめ」

【北山文化】写本

 室町時代(1338―1573)には芸能が豊かな展開をみせて、伝統として受け継がれるような成熟に到達しました。芸能とは人間の身体で表現する技法と型の伝承をいい、歌謡・舞踊・演劇などが代表的なものです。
 書写では、鎌倉末期から世尊寺流の流れをくむ伏見天皇の皇子・尊円そんえん法親王(1298―1356)の青蓮院流が広まりました。青蓮院門跡であった尊円法親王は、早くから書を世尊寺流の藤原ゆきふさ行房やゆきただ行尹に学び、穏やかさと力強さをあわせもつ青蓮院流を創始しました。青蓮院流もまた書風として伝承されているのではありません。
 平安時代の後期に、さまざまな芸能の中で人気を集めていたのは猿楽と田楽でした。とくに猿楽は寺社の行事に取り入れられて庇護されました。鎌倉時代には物まねに優れた大和猿楽と、歌舞を重んじた近江猿楽が知られました。
 観阿弥清次は物まねを主としていた大和猿楽をベースに、近江猿楽の華麗な歌舞をあわせ、さらに田楽の律動感をもとりいれた新しい芸風をつくりました。足利義満に注目されて後援を受けるようになり、京都に進出して活動の場を広げました。
 奈良県磯城郡川西町結崎には面塚と観世発祥之地碑が建てられています。また京都市東山区の新熊野いまくまの神社には猿楽大成機縁の地をしめす碑があります。ここは世阿弥元清がはじめて足利義満と出会ったところで、義満は世阿弥の美しさにひかれて寵愛するようになりました。
  金春本『風姿花伝』(室町前期?)  活字書体「たかさご」

【東山文化】写本

 室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれますが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来しています。「奈良絵本」は横本・縦本・大型縦本の三つにわけられ、紺紙に金泥で秋草などを描いており朱の題簽をもつものが多いようです。また嫁入り本とも呼ばれています。
 その挿絵は、泥絵具を用いた奈良絵風のものと、細密華麗な作風のものとがあります。ともに天地にすやり霞をつけた定形の構図を持っていて、いずれも朱や緑などの鮮やかな色彩と金銀箔・泥の使用がめだっています。
 奈良絵本はその多くが京都周辺で作られたと考えられていますが、その制作者や制作時期などの詳細は不明です。
  奈良絵本『さよひめ』(室町後期?)  活字書体「さよひめ」

第 3 回 やまと体(和様体)──古活字版・木版本系統 

【桃山文化】古活字版

 安土桃山時代(1576―1600)とは、一面では南蛮文化の時代でした。この南蛮文化とはポルトガルなどの宣教師・貿易商によって伝えられた西洋文化のことです。医学・天文学や芸術のほかに、鉄砲製造などの技術が伝えられ、キリシタン版の書物が刊行されました。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano 1530―1606)は、安土桃山時代に来日したイタリア人のイエズス会の司祭です。1582年(天正10)に天正少年遣欧使節団を引き連れて離日したヴァリニャーノは、1590年(天正18)に帰国する天正少年遣欧使節団をともなって、インド副王使節として2度目の来日をしました。
 このとき印刷機、活字、その他の印刷機材一式が持ち込まれました。長崎県南高来郡北有馬町にあったコレジョは、切支丹禁止令のために人目をしのんで転々と場所をかえ、天正少年遣欧使節団が帰国したときには、コレジョは長崎県南高来郡加津佐町にありました。こうして加津佐のコレジョに印刷機材一式がはこばれ、ついにキリシタン版の印刷がはじまったのです。
 すぐに加津佐のコレジョが危険になってきたために、もっと人目につかないところに疎開しなければならなくなり、現在の熊本県天草郡河浦町が選ばれました。1592年(文禄元)まで各地を巡察してゴアに戻ったヴァリニャーノは、日本巡察のために1598年(慶長3)に3度目の来日をしていますが、このころキリシタン版の印刷所は河浦から長崎へ移転していました。
 長崎市の華嶽山しゆんとくじ春徳寺の山門の脇に、「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑が立っています。1966年(昭和41)4月18日に長崎県指定史跡となっています。このトードス・オス・サントス教会にキリシタン版の印刷所がおかれました。さらに移転した岬の教会において『ぎや・ど・ぺかどる』が印刷されたようです。
  キリシタン版『ぎや・ど・ぺかどる』(1599)  活字書体「ばてれん」

【寛永文化】古活字版

 寛永年間(1624―1643)を中心とした文化は、桃山文化の豪華さを継承したものでした。その担い手は武士・町人で、幕藩体制確立期の文化です。
 建築では権現造の日光東照宮、数寄屋造の桂離宮などが知られています。絵画では幕府御用絵師で鍛冶橋狩野派の祖である「大徳寺方丈襖絵」を描いた狩野探幽(1602―1674)、宗達光琳派いわゆる琳派の祖で「風神雷神図屏風」を描いた俵屋宗達(生没年未詳)が活躍しました。
 本阿弥光悦ほんあみ・こうえつ(1558―1637)は刀剣鑑定の名家である本阿弥家の分家に生まれましたが、書や陶芸などにもすぐれ、1615年(元和元)には徳川家康より京都・洛北の鷹峯たかがみねの地を賜り、芸術村を営んでいます。書は「寛永の三筆」の一人といわれています。
 ところで、京都の嵯峨で本阿弥光悦・角倉素庵すみのくら・そあんらが、寛永以前の慶長・元和(1596―1624)にかけて刊行した嵯峨本は、主に木活字をもちいて用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本で、『伊勢物語』など13点が現存しています。
 京都市北区鷹峯光悦町の光悦寺は、緑に包まれた細い参道が本堂に通じています。回廊の下をくぐって木立の中を行けば、三巴亭さんばてい、大虚庵たいきよあんなどの7の茶席が散在しています。この地は、光悦が一族や職人とともに移り住んで芸術村を作ったところなのです。
  嵯峨本『伊勢物語』(1608)  活字書体「さがの」

【元禄文化1】木版

 元禄年間(1688―1704)には上方の経済がめざましい発展をとげました。大坂と京都を中心に町人層が新しい文化の担い手になり、庶民の生活や心情を描いた上方文学が生まれました。上方とは「上(皇居)のある方角」という意味で、京都およびその付近一帯をさすことばです。元禄時代を中心として大坂と京都で行われた町人文学を上方文学といいます。
 近世社会の仕組みが姿をあらわすなかで、都市の多様な生活を描き、生命力にあふれた人間の心情をとらえようとしたのが上方文学でした。そこにおおきな足跡を残したのが、浮世草子の井原西鶴(1642―93)、浄瑠璃の近松門左衛門、俳諧の松尾芭蕉の三人です。
 江戸時代になると青蓮院流は御家流と呼ばれて、調和のとれた実用の書として定着しました。徳川幕府は早くから御家流を幕府制定の公用書体として、高札、制札、公文書にもちいるように定めました。さらに寺子屋の手本としてもひろく採用されたことで大衆化し、あっという間に全国に浸透しました。
 井原西鶴の墓所は大阪市中央区の誓願寺にあり、その銅像は天王寺区の生国魂神社にあります。どちらも近鉄難波線うえほんまち上本町駅の近くです。
  浮世草子『世間胸算用』(1692)  活字書体「げんろく」

【元禄文化2】木版

 近松門左衛門(1653―1724)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者です。越前の人で、本名は杉森信盛。坂田藤十郎(1647―1709)のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きました。また、竹本義太夫(1651―1714)のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力しました。代表作に「国性爺合戦こくせんやかつせん」「曾根崎心中」「心中天網島しんじゆうてんのあみじま」「女殺油地獄おんなごろしあぶらのじごく」などがあります。
 浄瑠璃は語り物のひとつで、室町中期から琵琶びわや扇拍子おうぎびょうしの伴奏で座頭とよばれる盲目の琵琶法師が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされます。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節(ふしまわし)両面で多様に展開しました。
 また、義太夫は貞享年間(1684―1688)に竹本義太夫が始めた浄瑠璃の流派のひとつです。のちに竹本・豊竹二派に分かれました。物語の筋やせりふに三味線の伴奏で節をつけ語るもので、操り人形劇と結びついて発達しました。これが人形浄瑠璃です。
 人形浄瑠璃は、三味線伴奏の浄瑠璃に合わせて、人形を遣う人形劇です。慶長年間(1596―1615)に発生し、貞享年間(1684―88)には作者の近松門左衛門と太夫(語り手)の竹本義太夫が提携して成功をおさめて以後、おもに義太夫節によって行われるようになりました。
 ここに浄瑠璃は「義太夫」の異称となりました。なお大正中期以降、文楽座が唯一の専門劇場となったところから、人形浄瑠璃芝居を「文楽」ともいいます。ですから浄瑠璃と義太夫と文楽は、同義語といってもさしつかえないでしょう。
 近松門左衛門の墓は兵庫県尼崎市の広済寺にあり(墓は大阪市中央区にもあります)、広済寺のちかくの近松公園には銅像と近松記念館が建てられています。また大阪市中央区道頓堀の戎橋ちかくに竹本座跡があります。
 浄瑠璃本『曾根崎心中』(1703)  活字書体「なにわ」

【化政文化】木版

 文化・文政年間(1804―30)には江戸の都市機能がととのい、上方とは違う文化が形成されるようになりました。文化の中心も上方から江戸に移りました。江戸では粋や通を尊び、軽快・洒脱を好む傾向がありました。
 歌舞伎は江戸を拠点として人気を呼び、鶴屋南北(1755―1829)は 『東海道四谷怪談』などを生み出しました。また浮世絵も個性的な絵師が多くあらわれ、彫師・摺師との共同作業が展開されて大衆に受け入れられていきました。
 文学では元禄時代の上方文学と区別して、江戸文学とよばれます。江戸文学とは、明和・安永ごろから幕末まで江戸で行われた文学をさします。文化・文政のころに最盛期を迎え、読本よみほん・洒落本しゃれぼん・滑稽本・人情本・黄表紙・合巻ごうかんがあります。
 柳亭種彦夫妻の墓は品川区の浄土寺墓地に父・知義夫妻の墓とならんで建てられています。左側面には辞世「散ものにさだまる秋の柳かな」が彫られています。
 草双紙『偐紫田舎源氏』(1829―42)  活字書体「えど」

第 4 回 やまと体(和様体)──金属活字 

【新街活版所】金属活字

 本木昌造が1870年(明治3)に、新街私塾のなかに創業したのが新街活版所です。その新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830―1884)です。池原は長崎の池原香祗の二男として生まれました。実兄の池原枳園は書家として知られます。池原は国学者で眼科医の上田及淵、儒学者で書家の仁科白谷に師事し、また吉田松陰とも関わり朝廷を崇拝し勤王を唱えました。
 また商工業を奨励したといいます。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間でした。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入しながら放置されていた活字と印刷機を本木昌造に紹介したということからも、活字や印刷にも関心を寄せていたことがうかがえます。
 池原は1876年(明治9)に宮内省文学御用掛に任ぜられ、『美登毛能数』を記しています。
  平野活版製造所  活字書体「いけはら」

【江川活版製造所】金属活字

 江川活版製造所は、福井県出身の江川次之進(1851―1912)が創立しました。1883年(明治16)に活字の自家鋳造を開始するために、もと東京築地活版製造所の種字彫刻師であった小倉吉蔵の弟「字母駒」をまねきました。
 1885年(明治18)年に行書体活字の制作に着手したものの失敗に終わりますが、1886年(明治19)になって、あらためて著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼し、3、4年を費やして二号が、ついで五号活字が完成、売れ行きも良好でした。ひきつづき三号活字を製作、『印刷雑誌』第2巻第9号(1892)に発売予告(11月15日発売)の広告を出しています。なおこの行書体活字は、1895年(明治28)に青山進行堂活版製造所によっても母型が製造され市販されています。
 久永其頴の著書としては『楷書千字文』(東京・求光閣 1893)があります。
  青山進行堂活版製造所  活字書体「ひさなが」

【岡島活版所】金属活字

 湯川梧窓(享 1856―1924)は大阪で生まれました。幼時から書を学び、張旭、黄山谷その他古法帖によって研究して一家をなし、村田海石と並び称されたそうです。著書に『四体千字文』(大阪・青木嵩山堂 一八九五)、『普通作文』(大阪・大岡万盛堂 1895)などがあります。
 湯川梧窓が版下を制作した南海堂行書体活字は、大阪の岡島活版所において製造されていましが、1903年(明治36)に岡島氏の急逝により岡島活版所が廃業するに際して中止となっていました。それを青山進行堂活版製造所が継承したのである。南海堂行書体活字には二号から五号までの各シリーズがありますが、いずれも豪快でスケールの大きな筆致です。なかでも三号活字がもっとも整っています。
 青山進行堂活版製造所では、さらには湯川梧窓の版下による南海堂隷書体活字、南海堂草書体活字を追加しています。
  青山進行堂活版製造所  活字書体「ゆかわ」

【雑司ヶ谷霊園】碑刻

 江戸時代には大衆化したやまと(和様)書道ですが、明治時代になると当時の極端な欧化主義に反発して、わが国の固有の文化を守り進展させようという動きが起こりました。1890年(明治23)、上代様の研究を目的として「難波津なにわづ会」が創立されたのです。
 明治時代の極端な欧化主義に反発して、わが国の固有の文化を守り進展させようという動きが起こり、1890年(明治23)、上代様の研究を目的として「難波津会」が創立されました。
 難波津会自体は社会的に影響力をもつということはなかったようですが、ここに集まった人びとが、その後の展開に重要な役割を果たすことになります。彼らが研究の対象としたのは御家流ではなく、上代様すなわち平安古筆でした。尾上柴舟(八郎 1876―1957)は『粘葉本和漢朗詠集』の、和歌の書風と漢詩の書風を組み合わせた「調和体」を提唱しました。また阪正臣(1855―1931)は『桂宮万葉集』によって上代様を研究するとともに、漢字については王羲之の『十七帖』などに傾倒したといわれています。
 ここにいたって和字書体としてのやまと(和様)体と組み合わされる漢字書体は、やまと(和様)・御家流から行書体に組み合わせるように変わったのだと思われます。江戸時代以前はもちろんやまと(和様)・御家流の漢字書体でしたが、明治以降は行書体との組み合わされるようになりました。やまと(和様)・御家流は、ひろい意味では行書体といっても間違いではないのでしょうが、漢字書体の五体のひとつである行書体とはあきらかに異なっています。
  「槙舎落合大人之碑」(1891 雑司ヶ谷霊園)  活字書体「いしぶみ」

第 5 回 めばえ・ひのもと体(黎明本様体)

【国学1】木版

京都の錢屋利兵衞などによって1776年(安永5)に刊行されました。序題は「字音迦那豆訶比」、版心書名は「字音かな」となっています。序は須賀直見が書いています。1冊のみで、27cmサイズの四つ目綴じ製本です。著者の 本居宣長(1730―1801)は江戸中期の国学者です。伊勢の人で、号を舜庵(春庵)・鈴屋すずのやといいます。京都に出て医学を修める一方で、源氏物語などを研究しました。のちに賀茂真淵に入門しました。古道研究をこころざし、「古事記伝」の著述に30余年にわたって専心しました。また、「てにをは」や用言の活用などの語学説、「もののあはれ」を中心とする文学論、上代の生活・精神を理想とする古道説など、多方面にわたって研究・著述に努めました。著書に『初山踏ういやまぶみ』『石上私淑言いそのかみささめごと』『詞の玉緒』『源氏物語玉の小櫛おぐし』『古今集遠鏡』『玉勝間』『鈴屋集』などがあります。
  『字音假字用格』(1776 錢屋利兵衞など)  活字書体「もとい」    ……→詳しく

【国学2】木版

文政年間に書かれた国学者・伴信友(1773―1846)の遺稿をその子信近が校訂し、1850年(嘉永3)3月に長沢伴雄(1806―59)の序を添えたうえで、江戸・大坂・京都の書肆から刊行されたのが『仮字本末』です。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計4冊からなっており、朝鮮綴で薄紺色無地の表紙がつけられています。漢文体系統のひらがなが登場した古い印刷物のひとつだと思われます。
  『仮字本末』(1850  三書堂)  活字書体「さきがけ」

【洋学】金属活字

大鳥圭介は、縄武館につとめていたとき、『築城典刑』『砲科新論』を翻訳して、独自の活字をもちいて出版することに着手しました。大鳥は西洋の活字が便利だということを知って、独力で蘭書にもとづいていろいろ研究したそうです。『歩兵制律』(陸軍所 1865 印刷博物館所蔵)は、オランダの書物を開成所の教員であった川本清一が翻訳し、大鳥の活字をもちいて印刷したものです。
  『歩兵制律』(1865 陸軍所)  活字書体「あおい」

第 6 回 いぶき・ひのもと体(明治本様体)

前期

【活版製造所弘道軒】金属活字

 神崎正誼まさよし(1837―91)は1874年(明治7)に「活版製造所弘道軒」を創立しました。そして新しい活字書体の版下の揮毫を、書家の小室樵山(正春 1842―93)に依頼しました。尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔ににんびくにいろざんげ』(吉岡書籍店 1889)にも、本文に弘道軒清朝体が用いられています。新著百種の第1作として刊行されたもので、印刷は国文社です。なお和字書体は、いろいろな活字がまざっており、純粋に弘道軒清朝体とはいえないかもしれません。
  『二人比丘尼色懺悔』 1889   活字書体「はやと」 

【東京築地活版製造所】金属活字

 香月薫平かつきくんぺい著『長崎地名考』は、上巻・下巻・附録の3冊からなっています。1893年(明治26)11月に長崎の虎與號商店から発行されています。奥付には、印刷所は東京築地活版製造所、印刷人は曲田成まがたしげり(1846―94)とあります。平野富二が1889年(明治22)に株式会社東京築地活版製造所社長を辞任し本木昌造の長男・本木小太郎が社長心得になりますが、本木小太郎は病弱だったので、曲田成が三代目社長に就任しています。
  『長崎地名考』 1893   活字書体「きざはし」

【内閣印刷局】金属活字

 長崎製鉄所主任だった本木昌造は、ウィリアム・ガンブルを活版伝習所の技師長として招聘しました。ここでは活字鋳造法と活字版印刷術全般にわたる技術を伝授しました。これがわが国の活字版印刷術の基礎となったのです。長崎製鉄所付属活版伝習所が解散したとき、製鉄所にとどまって活字製作に従事した人たちが、のちの工部省勧工寮活版所となりました。その後の幾多の変遷を経て内閣印刷局となりました。現在は国立印刷局となっていて、紙幣、切手をはじめ、国債、パスポート、官報、政府刊行物などの印刷を行っています。
  『内閣印刷局七十年史』 1943   活字書体「かもめ」

後期

【国光社】金属活字

 西澤之助(1848―1929)は1888年(明治21)に国光社を創立しました。国光社は伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 などで一定の地歩を占めました。1900年(明治33)に西澤之助は国光社社長を辞し、日本女学校を設立しています。また国光社は多くの教科書を発行している大手教科書会社でもありました。国光社活字とは国光社が独自に開発したとされる書体で、吉田晩稼(香竹 1830―1907)が版下を書いたといわれています。
  『尋常小學國語讀本 修正四版』 1901   活字書体「さおとめ」

【秀英舎】金属活字

『少年工芸文庫』は全12冊発行されています。著者の石井研堂(民司)は、民衆の立場から明治以来の日本の近代化を探求・記録した博物学者です。石井研堂は1885年(明治18)に上京して岡鹿門(千仭)の漢学塾で学びました。同門に、尾崎紅葉、北村透谷がいます。発売元の博文館は、明治時代には日本の出版界をリードしていましたが、大正から昭和にかけて雑誌を中心に発展してきた講談社などに押され終戦後に解散しています。奥付には、印刷所は株式会社秀英舎とあります。なお秀英舎では四号活字を改刻しており、それは『活版見本帖』(1914)に掲載されています。1935年(昭和10)に、秀英舎は日清印刷と合併して、大日本印刷となりました。そして1948年(昭和23)にベントン彫刻機を導入し、それを契機としてつくられた新しい明朝体が現在まで引き継がれています。
  『少年工芸文庫第八編 活版の部』 1902  活字書体「はなぶさ」 

【青山進行堂活版製造所】金属活字

 青山安吉(1865―1926)は1909年(明治42)5月、青山進行堂活版製造所の創業20年を記念して『富多無可思』を発行します。この約300ページにもおよぶ線装(袋とじ)の記念誌は、活字の見本帳であり、印刷機械などの営業目録でもあります。『富多無可思』の青山安吉による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれていますが、和字書体は共通のものです。青山進行堂活版製造所の和字書体を代表するものだと考えられます。
  『富多無可思』 1909  活字書体「まどか」

第 7 回 さかえ・ひのもと体(昭和本様体) 

【津田三省堂】金属活字

「津田三省堂」は明治42年に名古屋において、津田伊三郎によって創業されました。『本邦活版開拓者の苦心』は昭和9年に私家版として発行されたものでした。ここには本木昌造にはじまり、35名におよぶ開拓者のあれこれが記載されています。この書物こそ、この国の印刷史の貴重な人物列伝であり、出発点であり、基礎文献であることは間違いないようです。津田三省堂は昭和10年代に「津田宋朝体」の成功によって一世を風靡しました。
  『本邦活版開拓者の苦心』 1934  活字書体「みなみ」

【川口印刷所】金属活字

 印刷出版研究所『日本印刷需要家年鑑』のなかに、「組版・印刷・川口印刷所 用紙・三菱製紙上質紙」と明記されたページが16ページほどありました。これに用いられた活字が川口印刷所の9ポイント活字でした。川口印刷所は1911年(明治44)3月の創業です。川口芳太郎(1896―1985)が社長に就任してから、大きく発展をとげたそうです。1947年(昭和22)9月には、現在の社名である図書印刷株式会社となっています。
  『日本印刷需要家年鑑』 1936  活字書体「たおやめ」

【内外印刷】金属活字

 この『書物の世界』は、京都の内外印刷で印刷・製本され、朝日新聞社から発行されています。
 著者の寿岳文章(1900―1992)は英文学者で、書誌学者としても知られています。兵庫県出身で、京都帝大を卒業しました。旧姓は鈴木、妻は翻訳家・随筆家のしづ、また長女は国語学者の寿岳章子です。
 寿岳文章は関西学院大、甲南大などの教授を歴任し、英詩人W・ブレイクを研究し1929年(昭和4)に『ヰリヤム・ブレイク書誌』をあらわし、ダンテの『神曲』を完訳しました。
 一方で書誌学、和紙研究会の先駆者として知られ、1937年(昭和12)に言語学者・新村出(1876―1967)らと和紙研究会を結成しました。自らも私版『向日庵本』を刊行し、数々の美しい書物を作り続けました。
  『書物の世界』 1949  活字書体「たいら」

【興国印刷】金属活字

 太平洋戦争後の1946年(昭和21)から1950年(昭和25)までの約四年間、北海道では札幌市を中心として出版ブ―ムがおこりました。このときに北海道各地で刊行された文芸書や教養書を「札幌版」といいます。北海道内の新興出版社も多数設立され、活発な出版活動を開始しました。そのなかでも尚古堂書店の経営者である代田茂(1897―1954)による北方書院と、三田徳太郎(1886―1961)が設立した興国印刷は、業界屈指の活動をしています。『新考北海道史』の「序」と「まえがき」にもちいられた活字は、札幌版独自のものだというのではなく、おそらくは母型を購入して興国印刷で鋳造したものだと思われます。
  『新考北海道史』 1950  活字書体「ほくと」

第 8 回 ゆたか・ひのもと体(豊満本様体)

 

 一般に新聞用書体というときには扁平の本文書体をさします。新聞に扁平活字が登場したのは太平洋戦争がはじまった1941年(昭和16)のことです。それまでは一般書籍用と新聞用との区別はなく、同じように正体の書体が使われていました。
 この変更のおもな要因は用紙事情の悪化によるものです。質の悪い新聞用紙に膨大な情報量を詰め込まなければならなかったのです。当時は1行15字詰めで活字サイズも小さいものだったので、可読性をたもつためには抱懐カウンターをできるだけ大きくする必要があったのです。
 こうして扁平で抱懐を大きくした新聞用書体のスタイルが定着しました。1行11字詰めで活字サイズも大きくなり、一部に正体の書体が使用されるようになった現在でも、その書体デザインのスタイルは継承されています。

【九州タイムズ社】金属活字

 太平洋戦争後には戦時中の新聞統制が行われていた暗い不自由な時代から一転して、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の一連の新聞解放政策によって、全国各地で数多くの新聞が生まれました。これらは「新興紙」といわれ、その数は1,000紙以上といわれています。福岡県では、朝日新聞系の「九州タイムズ」、毎日新聞系の「新九州」が夕刊専門紙として発行され、地元の西日本新聞社の支援をうけた「夕刊フクニチ」が発行されました。このうちの九州タイムズ社の所在地は「天神町17番地」、編集印刷発行人は大島右助とあります。しかしながら1949年(昭和24)ごろになると、全国の新興紙の多くは休刊・廃刊に追い込まれ、「九州タイムズ」もまた姿を消しています。
  『九州タイムズ』 1946  活字書体「うぐいす」

 一般印刷用書体のなかにも、そのスタイルを色濃く反映しているものがあります。

『組みNOW』(写研 1976)の本文に使用されている和字書体は橋本和夫(1935― )氏が設計したもので、石井細明朝体縦組用かな・横組用かな(写研 1970)として商品化されています。橋本和夫氏は大阪生まれです。1955年にモトヤに入社、大阪朝日新聞で活字書体のデザインをした太佐源三氏に師事しました。1959年には写研に入社し、石井宋朝体の制作スタッフに加わりました。1960年代から1990年代の約30年間、本蘭明朝など写研で制作発売された書体の監修にあたりました。

『デザイン対話 再現か 表現か』(朗文堂 1999)で山本太郎氏の執筆によるページに使用された書体は小塚明朝R(アドビシステムズ 1998)で、小塚昌彦(1929― )氏によって設計されました。小塚昌彦氏は東京生まれです。1947年に毎日新聞社に入社しました。昭和の半ばから毎日新聞の書体をずっと手がけていた種字彫刻師・村瀬錦司氏との出会いによって、1952年より毎日新聞すべての活字書体のデザインにたずさわりました。1970年以降、CTSデジタルフォントのデザイン開発を担当しました。

第 9 回  かなめ・ひのもと体(筆耕本様体)

【慶応義塾】木版

 内田嘉一(晋斎)は1868年(慶応4)閏4月15日に慶応義塾に入門し、そこで福沢諭吉の信頼を得て、福沢の著書の版下を依頼されるようになりました。福沢は1871年(明治4)の初夏には『啓蒙手習之文』(慶応義塾出板)を刊行しました。巻菱湖書風で書かれた内田の書は、諭吉が提唱する「文字は分明でありたい」という考えを実践したものです。
   『啓蒙手習之文』 1871  活字書体「ふみて」

【吉川半七】木版

 尋常中学校国語科教科書である『国文中学読本』は、木版印刷で四つ目綴じになっています。
 発行兼印刷者の吉川半七は、現在の吉川弘文館の創業者とされている人です。1863年(文久3)に貸本業を営んでいた近江屋嘉兵衛の養子になり、1870年(明治3)には新店舗、近江屋半七書店を開業しています。
 1877年(明治10)より出版業も兼ね、多くは「吉川半七」個人名をもって発行所としていました。1887年(明治20)に出版専業となっています。なお、吉川弘文館の名称は没後の1904年(明治37)になってから使用されています。
   『国文中学読本』 1892  活字書体「まなぶ」 

【東京書籍】木版

 1903年(明治36)に小学校令が改正され、小学校の教科書は国定教科書となりました。さらに、1909年(明治42)には、日本書籍・東京書籍・大阪書籍の三社が翻刻発行をして、国定教科書共同販売所が販売することになりました。教科書に金属活字が一般的に採用されるようになるのは、他の書物にくらべて遅れていました。1933年(昭和8)まではおおむね木版印刷によったようです。『尋常小学修身書巻三』もまた彫刻風の力強い書風です。
   『尋常小学修身書巻三』 1919  活字書体「さくらぎ」 

【文部省】金属活字

 井上千圃せんぽ(高太郎 1872?―1940)は大正時代の後半から国定教科書の木版の版下を一手に引き受けており、従来との一貫性をたもつということから文部省(現在の文部科学省)活字の版下も井上に依頼することになりました。
この活字は1935年(昭和10)発行の『小学国語読本巻五』にはじめて使用されました。これがいわゆる文部省活字で、国民学校時代の国定第五期教科書『ヨミカタ』『よみかた』にも使用されています。教科書専用として制作されたために、のちに「教科書楷書体」「教科書体」とよばれるようになりました。
  『ヨミカタ』『よみかた』 1941  活字書体「しおり」

第 10 回  えみし体(古様体)(通称アンチック体/和字のスラブ・セリフ体)

【博文館】金属活字

 アメリカからの書体「antique」と同じ名称をもつ、辞書などの見出し語として用いられた和字書体にアンチック体があります。
『広辞苑』以前に新村出の編著で『辞苑』という国語辞典が1935年(昭和10)に発刊されていました。この『辞苑』は博文館から出版され、大ベストセラーとなっていました。
『辞苑』には、見出し語にアンチック体の和字書体がもちいられていました。もちろん『広辞苑』初版の見出し語もアンチック体の和字書体でした。ところが『広辞苑』第五版の見出しは太明朝体用としてつくられていた和字書体のようです。初版でも第五版もアンチック体の説明で「本辞典の項目に用いた見出しのかな文字」がアンチック体である、としたために混乱が生じています。
 そこで筆者は、アンチック体と太明朝体用和字書体とは異なる書体とみたいと思います。たとえば「の」の頂点がほぼ同じ太さになっているのがアンチック体、細くなっているのが太明朝体用和字書体ということができます。
 新村出(1876―1967)は京大教授で、ヨーロッパ言語理論の導入に努め、日本の言語学・国語学の確立に尽力しました。とくに国語史や語原・語誌・語釈に関する研究、外来語や南蛮文化に関する考証などの多方面にわたる業績をあげました。
   『辞苑』(1935 博文館) 活字書体「ことのは」

第 11 回  くまそ体(時様体)(通称ゴシック体/和字のサン・セリフ体/隷書体)

【東京築地活版製造所】金属活字

 東京築地活版製造所は1903年(明治36)11月1日に、わが国の活字版印刷史上最大規模の438ページにもおよぶ見本帳を発行しました。この見本帳に掲載された「5号2分ノ1ゴチックひらがな」および「5号ゴシックカタカナ」は、くまそ(時様)体(ゴシック体和字)が見本帳に登場した最初の書体のひとつであろうと思われます。その字様は漢字書体の隷書体の影響も顕著に見られます。なお、この見本帳の編輯兼発行者は第5代目社長の野村宗十郎(1857―1925)です。
   『活版見本』(1903  東京築地活版製造所) 活字書体「くらもち」

【森川龍文堂活版製造所】金属活字

 森川龍文堂は1902年(明治35)1月、森川竹次郎によって大阪に創業された金属活字鋳造と印刷機器販売をおこなう会社でした。森川健市が第2代社長に就任して、昭和初期には『活版総覧』(1933)や『龍文堂活字清鑒せいかん』などの活字見本帳を積極的に作成しています。ここにあらわれたくまそ(時様)体(ゴシック体和字)が森川龍文堂のオリジナルかどうかはわかりませんが、もっともスタンダ―ドな形象であると思われます。
   『活版総覧』(1933 森川龍文堂活版製造所) 活字書体「くれたけ」

【民友社活版製造所】金属活字

 民友社活版製造所は1901年(明治34)に初代渡辺宗七によって東京・銀座で創業されました。渡辺宗七が徳富蘇峰と親交があったことから、民友社出版部、印刷部とも業務提携をしていました。出版を中心としていた民友社がなくなったあとには、民友社活版製造所がその名称を継承することになりました。民友社活版製造所の5号ゴシック活字を本文として使用できるようなウエイトで復刻したのが「ますらお」です。
   『活字見本帳』(1936 民友社活版製造所) 活字書体「ますらお」

【日本孔版文化の会】孔版

 草間京平(1902―71)は東京・芸術倶楽部三五号室に「黒船工房」の表札を掲げて、宮城三郎とともに謄写版印刷を本格的にはじめます。書写ゴシック体は読売新聞の記者であった福富静児が始祖であると伝えられますが、大正時代に謄写版印刷において草間京平によって考案された「沿溝書体」によって確立したと考えられます。同人雑誌『新樹』(1924年5月21日発行 佐藤兄弟商会印刷)では、あらたに開発された沿溝書体で書かれているページがみられます。
   『沿溝書体スタイルブック』(1952 日本孔版文化の会) 活字書体「くろふね」

第 12 回 和字書体の新しい傾向

[タイポスとLETT]

 和字書体の新しい傾向を考える時、最も重要なポイントは1968年の「タイポス」の出現だというひともいます。タイポスは、桑山弥三郎、伊藤勝一、長田克巳、林隆男各氏の四人のメンバーによって数年の歳月をかけて開発されました。モデュールにより合理的に設計されていて、毛筆のなごりのない直線的でカチッとしたエレメントと共に、シャープで現代的なイメージを作り出しています。爆発的に世に迎えられ、『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子著、1981年、講談社)には「タイポス」が使われています。
「タイポス」によって提案された和字の直線化と同じコンセプトで、いわゆる鱗形のついた書体として谷欣伍氏デザインの「LETT」が一九七五年に登場しました。この書体は『レタリング 上手な字を書く最短コース』(谷欣伍著、1982年、アトリエ出版社)の本文に使用されています。
 参考:星屑コンテンポラリー[セイム][テンガ][ウダイ

[良寛と艷]

 1980年代になって、直線的な文字組に反発するかのように、自由なリズムを持った書体が目につくようになってきました。その現象は、1984年(昭和59年)に発表された「良寛」に象徴されます。「良寛」は味岡伸太郎氏によってデザインされた和字のみの書体です。和字本来のリズム感を出そうとしたこの書体は、時代の要求にマッチしたのと目新しさが受けて、一時的に爆発的なブームを巻き起こしました。「良寛」は良寛の書を下敷きにしていますが、そこには良寛のひょうひょうとした書風ではなく、むしろデザイナーの個性を強調した書体といえます。
 この「良寛」と同じ手法によって開発された書体に「艶」があります。この書体は、1985年(昭和60年)に株式会社写研から発売された和字書体で、女性的なつややかな筆跡を活字書体として再生させています。
 参考:星屑カーシヴ[たうち][さなえ][いなほ

[「紅蘭楷書」と「曽蘭隷書」のために制作された和字書体]

 1960―1970年代の「タイポス」は書写からもっとも離れた波をつくりました。それに対して1980―1990年代の「良寛」は書写をベースにした波をつくりだしました。この両極端の波にたいして、活字書体としての和字の原点にかえった基本的な書体になる書体は、漢字書体に従属する和字書体としてうまれました。
 写真植字からの書体を代表する和字書体として「紅蘭楷書」のために制作された和字書体と、「曽蘭隷書」のために制作された和字書体をあげます。前者は中国で制作された漢字書体と組みあわせるための和字書体、後者は台湾で制作された漢字書体と組みあわせるためにわが国で制作された和字書体です。
 参考:星屑ベーシック[ゆきぐみ][つきぐみ][はなぐみ