ふでづかい
 書写されたものをそのまま木版に彫刻したものですが、アウトラインの単純化が顕著にみられ、それがやや硬めの印象を受けます。漢字の楷書体、カタカナと同じような「うちこみ」をもっています。『字音假字用格』よりも強く鋭いものが多いようです。「まわし」は『字音假字用格』とおなじく、直線をつなぐ意識で描かれています。「はらい」も力強く引き抜いています。書写というよりも、彫刻による作用によって増幅されているようです。

まとめかた
 一字一字で完結している文字が多いようです。なかには連綿も残されてはいますが、漢字の楷書体を意識して書かれたために、必然的に独立性を強めたのではないかと思われます。字型(外形による分類)は、その自然な組み立てを守りつつ、『字音假字用格』よりも、正方形にちかくなるように揃えられています。

ならびかた
木版印刷でありますが、現在の活字組み版のように横の並びも揃っています。これは、方眼目盛りをつけてから書写したのではないかと思われます。割注を多用し、ふりがなをつけるなど、現在の活字組み版に通じているように感じます。

伴信友(1773-1846)
江戸後期の国学者。若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。山岸維智〔これとも〕の子として生まれ、幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となる。江戸に出て小浜藩校「講正館」に学ぶ。本居宣長の著書を読んで感激し入門を決意したが、入門の願いがとどいたのは宣長が亡くなったあとのことだった。信友は歴史の研究、古典の考証にすぐれた業績を残している。著書には壬申〔じんしん〕の乱に関する考証『長等山風〔ながらのやまかぜ〕』、外交史に関する考証『中外経緯伝』、随筆『比古婆衣〔ひこばえ〕』など。墓は福井県小浜市の発心寺に現存する。

 原資料は勉誠社文庫62、63『仮字本末』(1979年、勉誠社)という影印本です。著者は伴信友。上巻は「草仮字」、下巻では「片仮字」について書かれています。付録では、平田篤胤の『神字日文伝』の所説を批判し、「神代文字」存在説が信じるに足りないもので、古代朝鮮文字である吏道〔リト〕が出自であるとしています。『仮字本末』は論述上での不備もあり、その後の研究で否定された点も少なくありません。しかしながら日本の文字に関する歴史的研究が未着手であった当時にあって、ともかくもひらがな、カタカナの成立と沿革を大局的に論述しようとしたことにおいて、日本語研究史上特筆されています。
『鈴屋学会報第15号』(1998年、鈴屋学会)所収の矢田勉氏の論文「鈴屋の文字意識とその実践」において、鈴屋の文字意識を受け継いだとされる伴信友の書物には、江戸時代の木版刊本のシャープなところが、漢字書体の宋朝体、欧字書体のヴェネチアン・ローマン体に匹敵すると思われました。
 この『仮字本末』はひらがなもカタカナとが同じ文字列にあり、ひとつの字様としてそろっているので、復刻には都合のいいことでした。


■組み見本

 カタカナは「セ」「ネ」「マ」「ヰ」がなかったので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字も全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。

漢字書体は、
 左:陳起
 中:麻沙
 右:龍爪

『いのちなりけり』(葉室麟、文芸春秋、2008年)

『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。
『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。

 ひらがなの活字書体化にあたって、まず「な」「ぬ」「ね」「ま」「よ」のつながりを削除することにした。逆に「あ」「え」「さ」「ふ」のうちこみを強くし、「け」「に」のかえしをシャープにしました。こうすることによって判別性をたかめると同時に書風の統一性をはかることができました。
 大きく形姿を整えたのは「お」「な」「ほ」でした。これらは一字一字でみるとさほど問題なさそうにも思えますが、文字列のなかでは違和感があります。そこで現代において普遍性のあるように改良しました。
「し」には引き下ろしたものとはねあげたものとの二種類が存在していました。前者のほうが当時の主流となっていて使用量は圧倒的に多いのですが、現在の文章での普遍性を考え、後者をメインとすることにしました。