中国語のサイトへ
 ( Type Is Beautiful )

 

ローマン体・イタリック体・ゴシック体のなりたち
欧字書体の歴史
※リンクしている欧字書体の図版は、原典を参考に日本語混植用としてあらたに設計したものです。
第 1 回 キャピタル(大文字)とミナスキュール(小文字)

1 インペリアル・キャピタル(Imperial capital)──ローマ帝国の碑文書体

 ローマ帝国は、紀元前八世紀ごろ、ラテン人がイタリア半島のテベレ川下流域に建てた古代都市国家にはじまります。紀元前272年イタリア半島を統一し、ポエニ戦争に勝利して地中海沿岸一帯を支配しましたが、そののちも内乱がつづきました。この内乱を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行しました。 
 最盛期の五賢帝時代(96―180)には、その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となりました。五賢帝とは、ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人で、その代表格とされるのがトラヤヌス帝です。
 マルクス・ウルピウス・トラヤヌス(Marcus Ulpius Trajanus 53―117)は古代ローマ皇帝(在位98―117)となり、元老院と協調して内政を安定させるとともに、対外進出をはかってアルメニア、アッシリア、メソポタミアなどを征服、在位中にローマ帝国の版図を最大にしました。
 トラヤヌス帝の初仕事はダキア(ルーマニア)征伐でした。その勝利を記念するモニュメントとして企画され、のちにトラヤヌス帝の墓所となった44メートルの記念碑が、ローマ市街地の中心地、フォロ・ロマーノ地区にあります。この大円柱の基壇部に設置されている碑文こそが、インペリアル・キャピタル(帝国の大文字)のシンボリック的な存在となっています。
 インペリアル・キャピタルの筆記体として、写字生や著述家が好んだ書体がラスティック・キャピタルです。このラスティック・キャピタルは1世紀前半から5世紀後半までの間に、詩人ヴェルギリウス・ロマーヌス(前70―前19)の『エクローガ II 』(5世紀後半)など、格式の高い写本に多く使われています。

2 カロリンガ・ミナスキュール(Carolingian minuscule)──フランク王国の写本書体

 フランク王国は、フランク族が西ヨーロッパに建てた王国である。5世紀末、クロビスがフランク族を統一し、481年メロビング朝を興して建国しました。そののちも分裂・統一をくり返したが、751年、ピピン3世がカロリンガ朝を創始した。ピピン三世の子カール1世の時に最盛期を迎えました。
 カール・デア・グローセ(Karl der Grosse 742―814)はフランク王国カロリンガ朝の国王(在位 768―814)です。ちなみにフランス語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)、英語ではチャールズ・ザ・グレート(Charles the Great)と呼びます。版図を大幅に拡大しゲルマン諸部族を統合、教皇より西ローマ皇帝(在位 800―814)を戴冠する。国王から大帝となったのです。
 カール大帝は中央集権をめざして法制を整備するいっぽう、ヨーロッパ中から学者をあつめて学芸を振興しました。この文化の隆盛を歴史家たちはカロリンガ・ルネサンスとよんでいます。この時代において羊皮紙は高価だったにもかかわらず書物の需要は高かったのです。大帝はヨークから高僧アルクイン・ヴォン・ヨーク(735―804)をまねき、トゥールの大修道院長に抜擢しました。
 アルクインは修道院内に写本室を開設し、後期ローマ時代のアンシャルを小文字にしたハーフ・アンシャルをアレンジしてあたらしい書体を考案しました。これがカロリンガ・ミナスキュール(カロリンガ朝の小文字)です。

第 2 回 ブラック・レター体

1 テクストゥール(Textur)

 10世紀から11世紀になると、アンシャル系のカロリンガ・ミナスキュールはラスティック・キャピタルと結合して様式化がすすんでいった。「ラスティック・カロリンガ」とよばれる過渡期の書体で、ブラック・レターとしての特徴が顕著になっていった。さらには各地の写字生によって、地域的な特徴がくわえられた。
 15世紀には、教会専用の公式書体「レットレ・フォルム(lettre de forme)」という先のとがった書体と、非公式書体の「レットレ・スンマ(lettre de somme)」という丸みを帯びた書体がうまれた。もうひとつはフランスの法令文書用書体の「レットレ・バタルダ(lettre de batarde)」という書体があらわれる。
 教会専用の公式書体「レットレ・フォルム」からは、のちに「テクストゥール」とよばれるブラック・レター体が誕生した。テクストゥールとは平織りの織り目の等しい布を意味している。たしかに織り機にかかった縦糸のように整然とした印象である。テクストゥールには、ドイツ型、オランダ型、フランス型の3種類があるようだが、いずれも文字幅が狭く、垂直で角張っている。
 はじめての印刷用金属活字になったのが、ドイツ型のテクストゥールである。ヨハン・グーテンベルクが製作した金属活字は、当時の写字生が書いていたテクストゥールをモデルにしたもので、グーテンベルクの手がけた印刷物の代名詞とされる『42行聖書』にも使用されている。

2 ロトンダ(Rotunda)

 イタリアにつたわった「レットレ・スンマ」系の書体がロトンダである。テクストゥールが簡素化されて丸くなったもので、後述するシュバーバヒャーとの過渡期書体ともいわれる。また、丸ゴシック体ともいわれイタリアで発達した。アセンダーとディセンダーがみじかく、文字幅がやや広めの書体である。
 金属活字の「ロトンダ」はヴェネチアのエアハルト・ラットルド(1447―1528)が発行した活字書体見本帳(1486)に掲載されている。ラテン語に調和するようで、ニュルンベルクのアントン・コーベルガー(1440―1513)による『ニュルンベルク年代記』のラテン語版(1493)にも使用されている。
 ロトンダ活字の影響はイタリアからフランス、スペインにまで及び、17世紀まで使われ続けた。しかしながら、北部ヨーロッパではほとんど使われなかった。ラテン語とことなり、北部ヨーロッパの言語においては普遍的な書体ではなかったからであろう。

3 フラクトゥール(Fraktur)

レットレ・バタルダ」を原型にしてうまれたのがシュバーバヒャーとフラクトゥールである。テクストゥールがすべて垂直なのにたいして、シュバーバヒャーは文字の両端が丸くてアセンダーの上端がとがっている書体である。またフラクトゥールは文字の片側が丸くて、もういっぽうが垂直になっているのが特徴である。
 金属活字の「シュバーバヒャー」は、1470年以降にはあらわれている。本文用活字書体にシュバーバヒャーがもちいられた書物に、マインツのペーター・シェッファー(?―1502)の印刷物(1485)や、『ニュルンベルク年代記』ドイツ語版(1493)がある。1490年から1540年のあいだにはシュバーバヒャーの金属活字はドイツでもっとも人気のある書体だった。
 16世紀前半になると、印刷人ヨハン・ニュードルファ(1497―1563)と活字父型彫刻師ヒエロニムス・アンドレアによって、シュバーバヒャー活字から派生した金属活字の「フラクトゥール」が誕生する。それ以後は、フラクトゥール活字がドイツを代表するブラック・レター体とされ、シュバーバヒャー活字は補助的な扱いになった。フラクトゥール活字は画家アルプレヒト・デューラーの理論書(1526)に使用されている。

 Ophiuchus オフィウクス *Kinkido version of Textur

第 3 回 ヴェネチアン・ローマン体

1 ヒューマニスト

 ヒューマニズム( humanism 人文主義)とは、ギリシャ・ローマの古典研究によって普遍的な教養を身につけるとともに、中世のキリスト教を中心とした社会から人間を解放し、人間性の再興をめざした精神的な運動である。ルネサンス期に、イタリアの商業都市の繁栄を背景にして興り、やがて全ヨーロッパに波及した。その推進役をになったのがヒューマニスト( humanist 人文主義者)たちであった。
 ヒューマニストたちは、それまで一般的にもちいられていたブラック・レター体を野蛮で悪趣味だと切り捨てた。彼らはギリシャ・ローマの古典を紹介するための書体として、中世のキリスト教の権威が感じられるブラック・レター体では好ましくないと考えたようである。
 15世紀初頭にヒューマニストたちがもちいた書体は、カロリンガ・ミナスキュールを改訂したヒューマニスト・ミナスキュール(Humanist minuscule)と、ローマ時代のラスティック・キャピタルを受け継いだヒューマニスト・キャピタル(Humanist capital)であった。この書体は、ルネサンス期を代表する筆記体として流行したのであった。

2 スウェインハイムとパナルツ

 ルネサンス期のイタリアに、ドイツから印刷術を紹介したのはコンラード・スウェインハイム(?―1477)とアーノルド・パナルツ(?―1476)であった。ふたりはドイツのマインツにあったグーテンベルクの工房で働いていた印刷者だった。
 かれらは1464年にローマ郊外のスビアゴにある修道院にイタリアで最初の印刷所を設立した。ここではイタリアの読者にあわせて、ヒューマニストたちがもちいていた手書き文字をもとにして活字をつくった。
 この活字はヒューマニストの印刷人に好んでもちられるようになったようだ。ブラック・レター体からヴェネチアン・ローマン体へ移行する過渡期のものということで「プレ・ローマン体」といわれている。

3 スピラ兄弟

 ヒューマニストがおおく集まり、印刷の需要が高まっていたヴェネチアに最初の印刷所を設立したのは、ドイツ人の兄弟ジョン・スピラ(?―1470)とウェンデリン・スピラ(?―1478)であった。
 スピラ兄弟は、小文字に意図的なセリフをくわえて、大文字と小文字との調和をはかった。これにより手書き文字の模倣に過ぎなかったプレ・ローマン体から脱皮し、様式化されたヴェネチアン・ローマン体となったのである。

4 ニコラ・ジェンソン

 ヴェネチアン・ローマン体を完成させたのは、フランス人の印刷者ニコラ・ジェンソン(1420?―1481)であった。スピラ兄弟の活字書体よりも洗練されて読みやすい活字書体がジェンソンによって設計され、こんにちのローマン体の元祖とされるヴェネチアン・ローマン体が完成の域に達したのである。
 ジェンソンは、1458年にマインツのグーテンベルクのもとに派遣されている。この工房にどれくらいまで在籍していたのかは不明であるが、一四六八年にはヴェネチアにいて、グーテンベルク工房の同僚であったスピラ兄弟のために活字をつくっていたとも推測されている。ジョン・スピラ没後、ジェンソンは商人から資金援助を受けて印刷工房を設立し、完成度の高い活字で印刷をはじめたのである。
 ジェンソン活字を使用したのがプリニウス著『博物誌』(1472)である。紀元一世紀の著述家プリニウスの現存する唯一の著作で、古典ローマ世界のあらゆる知識を網羅した百科全書をして知られている。このジェンソン活字による『博物誌』は、活字版印刷史上もっとも重要な印刷物のひとつとされている。

5 アルバート・ブルース・ロジャース

 ニコラ・ジェンソンの活字が注目されたのは近代になってからである。アーツ・アンド・クラフツ運動で知られるウィリアム・モリス(1834―1896)は、1890年に理想の書物をもとめてケルムスコット・プレスを設立し、ジェンソンの活字を模倣した「ゴールデンタイプ」を発表している。
 モリスの影響を受けたアメリカのブック・デザイナー、アルバート・ブルース・ロジャース(1870―1957)は、ジェンソンの活字書体を復刻して「セントール」を設計した。
 ロジャースはジェンソンの活字書体をもとにして慎重に原図を描きおこした。もちろんジェンソン活字の完全な覆刻ではなく意図的な改正が加えられている。これをシカゴのロバート・ウィーブキングが機械式活字父型彫刻機をつかって忠実に活字化させたのである。
 この活字は、1915年にモーリス・ゲラン著『セントール』の新しい翻訳版をモンテニュ・プレスで印刷するときに、はじめて大文字と小文字がそろって使われている。ロジャースは、このジェンソン活字の復刻版を「セントール」と名づけたのである。セントールとは、わが国ではケンタウロスとして知られるギリシャ神話の怪物の名である。
               *             *             *
 近代に復刻されたジェンソン活字には、前述の「セントール」、「ゴールデンタイプ」のほかにモリス・フラー・ベントンの「クロイスター・オールドスタイル」、フレデリック・ガウディの「イタリアン・オールドスタイル」などがある。
 また近年においてはヘルマン・ツァップの「オウレリア」、ロバート・スリムバックの「アドビ・ジェンソン」がある。

◇ Aries アリエス *Kinkido version of Jenson

第4回 イタリック体

1 チャンセリー・カーシヴ

 チャンセリー・カーシヴはローマ教皇庁に勤める書記官が様式化したルネサンス期の書法である。チャンセリーとは教皇庁と教会とをむすぶ通信機関である「教皇庁尚書院」をさすことばで、カーシヴとは筆記体をあらわす。すなわちチャンセリー・カーシヴは書記官のインフォーマルの文書などにもちいられる通信用の筆記書体であった。
 別名「ヒューマニスト・イタリック・カーシヴ」ともいわれる。これはヒューマニスト・ミナスキュールをはやく書くために生まれた書体ということであり、のちにチャンセリー・カーシヴとして様式化されたのである。
 チャンセリー・カーシヴは、のちにゆっくりと書かれる公式用のチャンセリー・フォルマータへと分岐していった。そのために本来のチャンセリー・カーシヴを、チャンセリー・バスタルダと呼んで明確に区別するようになった。

2 マヌティウスとグリフォ

 ヒューマニストのあいだで流行していたチャンセリー・バスタルダを、はじめて金属活字として鋳造したのがヴェネチアの印刷人アルダス・マヌティウス(1449―1515)と、活字父型彫刻師フランチェスコ・グリフォ(1450?―1518?)であった。
 このチャンセリー・バスタルダ活字を、アルダス工房が本格的に書籍本文用の活字書体としてもちいたのは1501年に刊行されたローマ期の詩人ウェルギリウスの著作『作品集』においてであった。
『作品集』は古典名作詩集を掲載する「八つ折古典シリーズ」として上梓され、ヒューマニストのあいだで評判になった。そして「八つ折古典シリーズ」にしるされたチャンセリー・バスタルダ活字は、アルダス工房の活字「アルディーノ」と呼ばれた。
 なお、チャンセリー・バスタルダの最大の特徴である「筆記による傾斜」は小文字にだけ採用されて、大文字は直立したローマン体の伝統が受け継がれた。大文字が「筆記による傾斜」を取り入れるまでには、まだ四半世紀もの時間が必要であった。

3 アリッギとペルシヌス

 16世紀には、手書き書法によるチャンセリー・バスタルダも様式化がすすめられて、この書法をもちいる能書家が数多く輩出された。その代表的人物が、イタリアのルドヴィコ・デリ・アリッギ(1490?―1527)である。
 アリッギは北イタリアのヴィゼンツァで生まれ、ローマ教皇庁の書記官になり、外交などの職務に携わるなかで書家としての技芸をみがいた。アリッギの書く筆記体は評判となり、アリッギは「ヴィゼンチーノ」と称されるようになった。
 アリッギは1522年にはじめての書法教科書『ラ・オペレーナ』をローマで刊行、翌1523年には2冊目の書法教科書『Il modo de temperare le penne』を出版した。この教科書の序文には、鋳造されたアリッギのチャンセリー・バスタルダ活字がもちいられていた。
 活字版印刷に興味をもったアリッギは、1524年にローマで活字版印刷所を開設した。活字父型彫刻を担当したのは一流のメダル彫刻家だったラウティティウス・ペルシヌスだった。
 アリッギ印刷所ではじめて印刷された書物は、1524年のプロシウス・パラディウスのラテン語の詩集『コリチアーノ』だった。この『コリチアーノ』こそアリッギの名声を決定づけ、チャンセリー・バスタルダ活字の頂点をしめすものだとされている。

4 ロベール・グランジョン

 アルダス・マヌティウスとルドヴィコ・デリ・アリッギのチャンセリー・バスタルダ活字がフランスにつたわると、チャンセリー・バスタルダ活字は、フランスにおいては「イタリアの」つまり「イタリック」と呼ばれるようになった。
 1528年から39年の間、パリの印刷人シモン・ド・コリーヌ(1470―1546)は活字父型彫刻師クロード・ギャラモン(1480?―1561)と協力し、アルダスやアリッギの活字の模刻と改刻をくりかえした。
 1540年代に入るとギャラモンをはじめとするパリの活字製作者たちは大文字を傾斜させるようになり、フランス語に適した文字形象として整えられた。その結果として、ローマン体活字に随伴する活字書体となっていったのである。
 このイタリック体活字を、さらに完成に導いた人物が活字製作者ロベール・グランジョン(1513―89)である。パリに住んでいたグランジョンは、1547年になるとリヨンのグリフィウス印刷所に出入りするようになって、リヨンでもパリで整えられたイタリック体活字が導入されるようになった。
 さらに1557年にはリヨンに転居し、トーネス印刷所の活字製作を一手に引き受けた。また1566年にはアントワープのプランタン印刷所で活字製作をおこなうようになった。
 このようにしてグランジョンのイタリック体活字は、パリ、リヨン、アントワープへと伝わっていったのである。

5 アーサー・フレデリック・ウォード

 20世紀になって、アリッギのチャンセリー・バスタルダ活字を復刻したのが、アメリカの若きタイポグラファ、アーサー・フレデリック・ウォード(1894―1939)であった。
 ウォードは一九二五年にヨーロッパに渡ると、パリで活字父型彫刻師ジョルジュ・プルメとリバドー・デュマ活字鋳造所を探し出した。そこで1524年の『コチリアーノ』に使われた活字をもとに復刻し、アリッギの通称にちなんで「ヴィゼンチーノ」と名づけられた。「ヴィゼンチーノ」は、同年一一月にイギリスの詩人ロバート・ブリッジスの詩集『タベストリー』に使われた。
 1926年1月、ウォードはハンズ・マーダーシュタイク(1892―1977)の個人印刷所があるスイスのモンタノーラへとむかった。ウォードとマーダーシュタイクはプラトンの著作『クリトン』のために、二番目の復刻活字「ヴィゼンツァ」を製作した。
 1914年にニコラ・ジェンソンの復刻活字セントールを手がけたブルース・ロジャースは、セントールに随伴するイタリック体として「ヴィゼンツァ」を選んだ。ウォードは、セントールに適合するように調整し「セントール・イタリック」としてよみがえらせた。
 ウォードの手がけた「セントール・イタリック」は、「ヴィゼンチーノ」と「ヴィゼンツァ」とともに、通称として「アリッギ」と呼ばれるようになった。

◇ Libra リブラ *Kinkido version of Italic

第5回 オールド・ローマン体

【A】イタリア──ベンボ

1  フランチェスコ・グリフォ(1450?―1518?)

 アルダス・マヌティウス(1449―1515)の工房の建物はヴェネチアに残されており、壁面にはアルダスの事跡をしるしたプレートが付けられている。この工房において、多数のギリシャ・ローマ時代の古典文学を出版した。
 ビエトロ・ベンボ(1470―1547)の著作『デ・エトナ』(1495―96)に使われた活字書体こそ、オールド・ローマン体の成立を決定づけるものだった。この活字書体は活字父型彫刻師フランチェスコ・グリフォ(1450?―1518?)の手になるもので、ヴェネチアン・ローマン体にみられる個人的な書風が抑制されている。
 フランチェスコ・コロンナ(1433―1527)の著作『ポリフィラスの夢』(1499)の製作もアルダス工房で請け負っている。この書物では『デ・エトナ』に使われた活字を改刻して、大文字がより威厳を増している。
 これらの活字書体は、すぐに印刷人に影響を及ぼしたものではなかったが、のちにフランスに渡ってその価値が評価されて、オールド・ローマン体の地位が確立していくことになる。

2 ジョヴァンニ・マーダーシュタイク(1892―1977)

 二〇世紀に入って、スタンリー・モリスン(1889―1967)がアルダス工房の活字を見いだす。1923年に『ポリフィラスの夢』に使われた活字を「ポリフィラス」として復刻した。つづいて『デ・エトナ』に使われた活字を、その著作者の名を冠して「ベンボ」として復刻する。
 さらにモリスンは、ヴェローナのジョヴァンニ・マーダーシュタイク(1892―1977)にもちかけて『デ・エトナ』の活字のさらなる復刻を要請した。マーダーシュタイクは1939年に「グリフォ」と名づけられた書体を制作する。
 マーダーシュタイクは1946年から56年までの10年をかけて、フランチェスコ・グリフォがアルダス工房を去ってからの活字をもとにして新刻している。これはボッカッチョ著『ダンテ頌』に使用されたのにちなんで「ダンテ」と名づけられている。

【B】フランス──ギャラモン

1 クロード・ギャラモン(?―1561)

 人文主義者のジョフロア・トリィ(1480―1533)はアルダス工房の古典文学の書物に注目し、それらにもちいられていた活字の研究をクロード・ギャラモンにすすめたのである。
 ギャラモンは、印刷人シモン・ド・コリーヌ(1470?―1546)らとともにこれらの活字を分析して、フランス語に適するように試行錯誤を重ねていった。完成したギャラモンの活字は、コリーヌの義理の息子ロベール・エティエンヌ(1503―59)によって印刷された『ミラノ君主ヴィスコンティ家列伝』(1549)など、パリの印刷人によって多くの書物にもちいられた。

2 エゲノルフとバーナー活字鋳造所・プランタン活字鋳造所

 ギャラモンの工房は、印刷所から独立した活字製作専門の工房だった。ギャラモンの死後、その活字父型や母型は売却されて各地に分散していった。
 ひとつはドイツ・フランクフルトのクリスチャン・エゲノルフ(1502―1555)の活字鋳造所である。この活字鋳造所はエゲノルフの孫娘と結婚したヤコブ・サボン(?―1580)に継承され、サボンの死後に未亡人となったエゲノルフの孫娘と再婚したコンラッド・バーナーに引き継がれた。1592年には『エゲノルフとバーナー活字鋳造所の見本帳』が発行されている。この見本帳が「ギャラモン」の復刻のもとになったもので、1924年にドイツ・ステンペル活字鋳造所が最初に手がけた。
 もうひとつはネーデルランド・アントワープのクリストファ・プランタン(1520?―89)の印刷所に売却したルートである。プランタン印刷所は『多国語対照聖書』(1568―73)で知られ、現在は「プランタン・モレトゥス博物館」として一般公開されている。アドビ・システムズの「ギャラモン」(1989)は、プランタン・モレトゥス博物館に残されたギャラモンの活字を詳細に調査したとされる。

3 ジャン・ジャノン(1580―1658)

 スイス生まれの印刷人ジャン・ジャノンは、1612年にフランス・スダンで、フランスでははじめてとされる書体見本帳を発行している。これに掲載された書体はギャラモンの活字をもとにしてはいるが、むしろ17世紀という時代に求められて設計したものだった。
 このジャノンの活字書体は、スダン・アカデミーの出版物に公式書体として使用された。のちに宗教上の理由によって、フランス王立印刷局に没収されてしまった。フランス王立印刷局の所有となったことで、ギャラモンの活字であるとの誤解が生じてしまったのである。
 フランス王立印刷局のジャノンの活字書体は、20世紀になって「ギャラモン」と混同されたまま復刻されている。1917年のアメリカ活字鋳造会社(ATF)の「ギャラモン」にはじまり、他の活字メーカーがこれに追従した。

◇  Taurus タウラス *Kinkido version of Garamond

【C】オランダ──ファン・ダイク

1 クリストフェル・ファン・ダイク(1601―69)

 17世紀のオランダを代表する活字父型彫刻師としてクリストフェル・ファン・ダイクがいる。ファン・ダイクは、当時最高水準にあったアントワープのプランタン印刷所で、ギャラモン活字をしっかりと研究していたと推測される。したがってフランチェスコ・グリフォからクロード・ギャラモンに継承されたオールド・ローマン体の流れを、ファン・ダイクが間接的にうけついだといえる。
 ファン・ダイクの活字は、その死後に活字鋳造所の資産を落札したダニエル・エルゼヴェルの未亡人によって発行された活字書体見本帳(1681年3月発行)によって、ひろく紹介されることとなった。
 ダニエル・エルゼヴェルの未亡人は、ファン・ダイクの活字をふくむ活字鋳造設備一式を1683年5月に、アムステルダムの印刷者エセフ・アシアスに売却した。その後も売却がくりかえされるが、結果的にはハーレムのエンスヘデ活字鋳造所にファン・ダイクの活字のすべてが伝わったのである。
 なおファン・ダイクを筆頭とするオランダのオールド・ローマン体は、独特の黒みや骨格の頑丈さをもっているために、現在では「ダッチ・オールド・ローマン」と呼ばれている。

2 ヤン・ファン・クリンペン(1892―1958)

 ハーレムのエンスヘデ活字鋳造所は19世紀には沈滞していたが、1920年代になると、ヤン・ファン・クリンペンという傑出したタイポグラファの登場によって、一気に活気をとりもどした。
 クリンペンが最初に設計した活字書体が「ルテツィア」で、父型彫刻師P・H・レディシュによって具現化された。この書体はモノタイプ社のスタンリー・モリスンによって注目された。
 スタンリー・モリスンは、ファン・ダイクの活字を復刻するという企画にあたり、クリンペンにアドバイザーを頼んだ。クリンペンのアドバイスにより、機械による活字父型がモノタイプ社のスタッフの手でつくられた。こうして一九三五年に完成した復刻書体「ファン・ダイク」はオランダを代表する活字書体となった。
 クリンペンは、ほかにもいくつかの活字書体を設計している。なかでも1952年に完成しエンスヘデ活字鋳造所から発売された「スペクトラム」は、1955年にはモノタイプ社からも発売されている。

【D】イギリス──キャズロン

1 ウィリアム・キャズロン(1692―1766)

 オールド・ローマン体はイタリアで生まれ、優美なフランス活字、武骨なオランダ活字へと地域的な変化を遂げながら、ついにはイギリスに到着するのである。
 ウィリアム・キャズロンは20歳代のなかばから独立し、製本師ジョン・ワッツと印刷者ウイリアム・ボイヤーの援助を得て活字製作をはじめた。わずか数ヵ月後には独自の地位を固めて、その活字鋳造所をイギリスで最大規模にしている。
 当時のイギリスはオランダのローマン体が流行していた。キャズロン活字はアムステルダムの父型彫刻師ディルク・ヴォスケンスの活字をモデルにしたといわれるが、その武骨な特質を穏やかにして洗練さをくわえたことによって「イギリス風で快い」という称賛をえたのである。
 1734年にキャズロンは枚葉の活字書体見本帳を発行、さらに1738年にその再版が出版された。1763年には製本された最初の活字書体見本帳がキャズロン活字鋳造所から発行されている。この見本帳がキャズロン最晩年の仕事になった。

2 チャールズ・ウィッティンガム(1795―1876)

 18世紀のアメリカでは、活字書体はイギリスからつたわっていた。したがってキャズロン活字の改刻はアメリカの活字鋳造所でおこなわれたが、もはやキャズロン活字とは思えないほどアメリカ風に変化してしまっていた。
 イギリスでは、その後キャズロン活字はしばらく人気が低落していたが、チャールズ・ウィッティンガムの個人印刷所チズウィック・プレスで、キャズロン活字の父型からあらためて母型をつくりなおして、その活字を使用した書物を1844年に印刷したことで、ふたたびキャズロン活字の人気が復活した。
 キャズロン活字鋳造所は、1936年にイギリスのスティヴンスン・ブレイク社に買い取られてその長い歴史に幕をおろしている。

◇ Gemini ジェミニ *Kinkido version of Caslon

第6回 スクリプト体

1 リュカ・マトゥロ

 チャンセリー・バスタルダは印刷用活字書体として成立し、イタリック体として発展していったが、その一方で、個人的で優美な曲線への欲求は銅版印刷へとむかっていった。
 銅版印刷とは、銅製の一枚板を使った凹版印刷の一種である。活字版が陽刻・凸状の版になるのにたいし、凹版は陰刻・凹状の版になる。その素材として銅が多く使われたために、凹版印刷のことを一般的には銅版印刷と呼んでいる。
 金属板にじかに彫刻する方法(エングレーヴィング)での銅版印刷は1420年から1430年ごろにかけてドイツとイタリアではじめておこなわれた。17世紀以降には腐食銅製技法(エッチング)が主流になったが、フランス宮廷ではエングレーヴィングを銅版印刷の唯一の製作技法と認めていた。
 この時期に活躍したのがアヴィニョンの教皇庁の書記官リュカ・マトゥロである。リュカ・マトゥロの書法はチャンセリー・バスタルダをもとにしながらも、銅版の特徴である自在性をさらにすすめたものであった。それまでには見られなかった筆脈のつながりや、装飾的なストロークをもっていた。

2 ルイ・バルブドールとルイ・スノー

 リュカ・マトゥロに継ぐ書家として、ルイ・バルブドールとルイ・スノーがあげられる。ふたりはマトゥロのチャンセリー・バスタルダを継承する一方で、伝統的な手書き書法であるゴシック系スクリプト体をもとに活字父型彫刻師ロベール・グランジョンが製作した「シヴィリテ」の系譜の文字も書いている。シヴィリテの系譜の文字は、直立した丸い文字形象のスクリプト体「ロンド」と呼ばれるようになった。
 一九世紀中期以降になってからは、フランスのドベルニ・アンド・ベイニョ活字鋳造所が「ロンド・モデリヌ」を復刻させた。またアメリカでは一八八二年のブルース・アンド・サン活字鋳造所の「セレクタリー」、1906年のアメリカ活字鋳造会社の「ティファニー・アップライト」が発売された。
 1970年に、イギリスのタイプ・デザイナー、マシュー・カーター(1937― )がハンス・イュルク・フンツィカーと組んで制作した「ガンドー・ロンド(GANDO RONDO)」は、パリのガンドー家のロンド活字をもとにしたものである。

3 ピエール・シモン・フルーニエ(1712―68)

 ピエール・シモン・フルーニエ(1712―68)は、書家ロシニョールの手書き文字をもとにした活字を「バスタルダ・クゥレ」となづけて、ロンド活字とともに活字見本帳(一七四九)に掲載した。ロシニョールの文字は、チャンセリー・バスタルダとロンドが折衷されたようなものであった。「バスタルダ・クゥレ」はロンドをチャンセリー・バスタルダのように傾斜させて縦線と横線のコントラストを弱めた活字書体である。
 バスタルダ・クゥレは一九世紀中期以降には復刻されることはほとんどなかった。その理由は、チャンセリー・バスタルダやロンド、あるいはイタリック体のなかで、存在価値を失ったためであると見なされたためであろう。

4 チャールズ・スネル(1667―1733)

 チャンセリー・バスタルダを源流にして、エングレーヴィング技法のなかで育まれてきた銅版文字を、鋭くカットされたペンによって模倣したのがラウンド・ハンドである。ラウンド・ハンドはリュカ・マトゥロのチャンセリー・バスタルダよりも傾斜角度がつよく、筆写の速度が感じられる。
 ラウンド・ハンドを代表するのがイギリスの書家であるチャールズ・スネル(1667―1733)だった。スネルは1723年に『ラウンド・ハンドの基本原則』を刊行して、ラウンド・ハンドの書法を説いている。
 ラウンド・ハンドとしては、一九五二年になってドイツのタイプ・デザイナー、ヘルマン・ツァップ(1918― )の手がけた「ヴィルトゥオーサ(VIRTUOSA)」が、ドイツのステンペル活字鋳造所から発売されている。この書体はノン・ジョイニング・レターで、効率的に活字組版ができるものである。
 つづいてマシュー・カーターは、1966年にチャールズ・スネルのラウンド・ハンドを復刻した「スネル・ラウンドハンド(SNELL ROUNDHAND)」を、1972年にはジョージ・シェリー(1666―1736)のラウンド・ハンドを復刻した「シェリー(SHELLY)」を発表している。

5 スティヴンスン・ブレイク社

 ラウンド・ハンドは、そののち個性的で装飾的な面をそぎ落とされた「スクリプト体」となり、イギリスやアメリカの教育現場で筆記体の模範書体として広まった。
 20世紀に入ってからのイギリスのスクリプト体として、スティヴンスン・ブレイク社が発売した「パレス・スクリプト(PALACE SCRIPT)」があげられる。パレス・スクリプトは1923年にはモノタイプ社からも発売されている。この書体の傾斜角度はラウンド・ハンドよりもさらに傾けられ、イタリック体との違いを明確にしている。
 ドイツでは1943年にバウワー活字鋳造所が「グラフィック・スクリプト」を発売、フランスのドベルニ・アンド・ベイニョ活字鋳造所も「カリグラフィーク」を発売している。アメリカ活字鋳造会社でも1906年に「コマーシャル・スクリプト」などを発売している。

◇ Scorpio スコルピオ *Kinkido version of Script

第7回 トランジショナル・ローマン体

1 ジョン・バスカーヴィル(1706―75)

 トランディショナルとは「過渡期の」という意味の形容詞である。オールド・ローマンからモダン・ローマンへの過渡期のローマン体ということである。
 代表的なトランディショナル・ローマン体が「バスカーヴィル(BASKERVILLE)」である。イギリスのジョン・バスカーヴィル(1706―75)の活字は、オールド・ローマンの影響を残しながらも、コントラストを強めた水平垂直にちかい骨格になっている。
 バスカーヴィルはイギリス中南部のウィスター州で生まれた。17歳のころからカリグラフィの教師をするかたわら、石彫の仕事もしていた。30代になると漆器業で成功をおさめ、イージー・ヒルと名づけたバーミンガムの広大な土地を購入している。
 バスカーヴィルは1750年、44歳のときに印刷業に取り組んだ。活字父型彫刻師のジョン・ハンディ(?―1793)を雇って、イージー・ヒルの工房で書体設計の地道な研究と実験をくりかえした。
 1757年に出版された古代ローマの詩人ウェルギリウスの『田園詩と農事詩』は、グレート・プライマー(一八ポイント相当)のバスカーヴィル活字で組まれている。1758年にはミルトン著『失楽園』を出版したあと、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の大学出版局で、聖書の印刷にかかわることになる。
 バスカーヴィルは活字だけではなくて、印刷インキや製紙など印刷技術の向上にも努めている。

2 ピエール・シモン・フールニエ(1712―68)

 フランスのピエール・シモン・フールニエ(1712―68)の活字「フールニエ(FOURNIER)」もトランディショナル・ローマン体である。フールニエ活字はバスカーヴィル活字と同様に、画線の縦横比が大きく、均質で整理されているという特徴をもっている。
 フールニエはパリで生まれ、父ジャン・クロードの郷里であるオセールで暮らした。17歳の時フランスの宮廷文化の華やかなロココ時代のパリに戻り、サン・リュックのアカデミーで絵画をまなんだ。
 その後フールニエは1736年に金属活字の制作をはじめた。1742年に刊行された『印刷活字見本』は世界各地に10部が現存していることが知られている。この活字書体見本帳には1737年に活字サイズの体系をまとめた「比例対照表」もふくまれている。
 フールニエは1764年に『タイポグラフィの手引き』第1巻を、1766年(実際には1768年)に第2巻を刊行している。第1巻は活字父型の彫刻と鋳造についてが詳細に解説され、第2巻にはフールニエが制作したほとんどの活字書体見本が掲載されている。
 フールニエが考案した印刷活字のためのポイント・システムの原理は、現在にも息づいているのである。

◇ Cancer キャンサー *Kinkido version of Baskerville

第8回 モダン・ローマン体

1 フェルミン・ディド(1764―1836)

 フランスのフェルミン・ディド(1764―1836)は、ステムが直線的に構成されるという特徴がある新しい活字書体「ディド(DIDOT)」を設計した。現在モダン・ローマン体として知られているスタイルである。
 ディド家は18世紀から19世紀にかけて、印刷者、出版者、活字鋳造業者、発明者、作家や知識人を輩出した家系であった。1800年ごろにはディド家ではフランスでもっとも重要な印刷所と活字鋳造工場を所有した。兄のピエール・ディド(1761―1853)によってフェルミン・ディドが設計した活字をもちいて印刷した出版物が発表された。
 なお「ライノタイプ・ディド」は1991年にアドリアン・フルティガーによって復刻されたものである。

2 ジャンバティスタ・ボドニ(1740―1813)

 イタリアのジャンバティスタ・ボドニ(1740―1813)によって1790年以降に設計されたパルマ公国印刷所のあたらしいローマン体が「ボドニ(BODONI)」である。パルマ公国は18世紀ころにファルナーゼ家が統治していたが、現在はイタリアの一都市である。
 ボドニはイタリア・トリノ郊外のサルッツォで、印刷職人フランチェスコ・アゴスティーノ・ボドニの子として生まれた。父の初期教育ののちにトリノのマイアレッセ工房で修業し、さらにローマのカトリック教会の印刷工場では活字父型彫刻師としての評価をえるまでになった。
 二八歳のときにパルマ公国印刷所に招聘されているが、ボドニが活字父型彫刻師として目覚めたのは50歳になってからだった。このときボドニは新しい活字書体設計にあたって、極細でブラケットのないセリフにして、コントラストのつよい直線的で機械的な外観をつくったのである。

3 リチャード・オースティン(?―1830)

 イギリスのリチャード・オースティン(?―1830)は、1809年から1812年ごろにかけてグラスゴウのウィリアム・ミラー活字鋳造所のために活字書体を手がけた。この書体は1813年の活字見本帳に紹介され、1909年にイギリスのモノタイプ社で再刻された。1936年には「スコッチ・ローマン(SCOTCH ROMAN)」に名前が変更されている。
 スコットランドの印刷者のつくったローマン体という意味で名づけられた「スコッチ・ローマン」は、その類似書体もふくめて、19世紀から20世紀はじめにかけてイギリスとアメリカで急速にひろまっていった。
 アルバート・ハンサード(1821―65)によって日本にもたらされた印刷物には、イギリスとアメリカで一般的だったスコッチ・ローマン系の活字書体がつかわれていた。つまり活字版印刷の黎明期に日本人が目にした欧字書体の多くは、このモダン・ローマン体だったのである。

◇ Leo レオ *Kinkido version of Bodoni

第9回 モダン・ローマン体以後

1 テオドール・ロゥ・デ・ヴィネ(1828―1914)

 リン・ボイド・ベントン(1844―1932)といえば、機械式活字父型(母型)彫刻機(略称ベントン彫刻機)の発明で知られているが、活字書体開発にも携わっている。その代表的な活字書体がテオドール・ロゥ・デ・ヴィネ(1828―1914)と共同で作った「センチュリー(CENTURY)」である。
 デ・ヴィネはアメリカ活字版印刷業組合の初代会頭をつとめた人で、彼の経営するデ・ヴィネ・プレスは技術と品質のたかさで知られていた。センチュリーは、デ・ヴィネ・プレスが印刷していた雑誌『センチュリー・マガジン』のための専用書体としてデ・ヴィネが設計し、リン・ベントンがみずからの彫刻機をもちいて1895年に作られた。
 デ・ヴィネによる最初の設計は10インチ(約25cm)の大きさで描かれ、綿密な検討と修整が繰り返されたという。その結果、モダン・ローマンから脱した「ニュー・トランジショナル・ローマン」に分類される活字書体になった。
 センチュリーは、のちに膨大な数のセンチュリー・ファミリーへと展開された。日本でも太平洋戦争前から英語教科書に使われ続けてきた書体であり、いまなお多様な媒体で綿々と使われ続けている。

2 フレデリック・ウィリアム・ガウディ(1865―1947)

 アメリカ活字鋳造会社(ATF)の依頼によって、フレデリック・ウィリアム・ガウディ(1865―1947)が1915年に制作したのが「ガウディ・オールドスタイル(GOUDY OLDSTYLE)である。のちにモリス・フラー・ベントン(1872―1948)によってファミリー化された。
 1918年には書籍本文用の「ガウディ・モダン(GOUDY MODERN)」が制作されている。モダン・ローマン系書体には直線的な硬さがあるのだが、この書体はガウディ独特の微妙な曲線で処理していることが評価された。
 ガウディは百数十書体をたったひとりで制作した多作のタイプ・デザイナーとして知られている。彼の手がけた活字書体には共通する独特の雰囲気が感じられるが、そこには自分の理想とする活字書体への強いこだわりをうかがえる。

3 スタンリー・モリスン(1889―1967)

 イギリスを代表する新聞『ザ・タイムズ』は、1932年10月3日からまったくあたらしい活字書体「タイムズ・ニュー・ローマン(TIMES NEW ROMAN)」を使用し、その印刷紙面を刷新した。この書体を設計したのがスタンリー・モリスン(1889―1967)である。タイムズ・ニュー・ローマンのモデルになったのは、モノタイプ社の「プランタン」であった。
 この活字書体を新聞用活字組版システム「ライノタイプ」に適合させるために、モリスンはザ・タイムズ社と提携して書体開発をおこなった。モリスンがペンで下書きをしたものをザ・タイムズ社の職人のヴィクター・ラーデントがパターン原図を描いたという。
 1933年10月にタイムズ・ニュー・ローマンは、ザ・タイムズ社の独占使用を解除されて一般にも販売されることとなった。また近年では膨大なフォントを備えたファミリーとして再生されている。

4 ヤン・チヒョルト(1902―74)

 1960年代とは凸版印刷からオフセット印刷へ、金属活字から写真活字へと移行する時代だった。ドイツの書籍印刷の業界団体「ドイツ高等印刷組合」では、手組み活字による植字法、ライノタイプ社とモノタイプ社の自動活字鋳造植字機のどちらでも同一の品質を維持でき、さらには写真植字機にも適応できるローマン体をという要望を実現するために、タイポグラファのヤン・チヒョルト(1902―74)をタイプ・デザイナーとして起用した。こうして設計されたのが「サボン(SABON)」である。
 チヒョルトは10ptの20倍(約7cm)の大きさで原図を描き、写真処理で縮小してパターンを作成し、ベントン彫刻機で活字母型を製作した。その作業にはモノタイプ社、ライノタイプ社、ステンペル活字鋳造所(手組み用担当)の技術者が従事していた。
 チヒョルトが参考にしたのは『エゲノルフとバーナーの活字書体見本帳』にあったギャラモンの活字であった。チヒョルトは、ギャラモンの活字の行く末に大きくかかわった活字製作者ヤコブ・サボンから名前をつけた。サボンは20世紀を代表するオールド・スタイル・ローマンとしての評価を得ている。
 2003年には、ライノタイプ・ライブラリー社から「プラチナ・コレクション」のひとつとして、ステンペル活字鋳造所(手組み用)のサボンが「ライノタイプ・サボン・ネクスト」として電子活字化されている。

◇ Virgo ヴァーゴ *Kinkido version of Century Oldstyle

第10回 スラブ・セリフ体

1 ヴィンセント・フィギンス(1766―1844)

 スラブ・セリフ体の先駆として「アンティーク(ANTIQUE)」があげられる。ジョゼフ・ジャックソン(1733―92)の弟子ヴィンセント・フィギンス(1766―1844)によって1815年に制作された。1817年に発行された見本帳に四サイズの「アンティーク」が掲載されている。わが国では「アンチック」とも呼ばれている。

2 ロバート・ソーン(1754―1820)

 キャズロン活字鋳造所で働いていたトーマス・コットレ(?―1785)の弟子ロバート・ソーン(1754―1820)の制作したスラブ・セリフ体は、ウィリアム・ソローグッドによって「エジプシャン(EGYPTIAN)」と名づけられ、1820年に売りだされた。当時のイギリスのエジプト・ブームに便乗した命名だったそうである。ロバート・ソーンは、ステムとバーのコントラストを極限まで強めた広告用書体「ファット・フェイス(FAT FACE)」を1803年ごろに制作した人である。

3 ロバート・ベズリ

 ロバート・ベズリによる「クラレンドン(CLARENDON)」は1845年にイギリスのファン・ストリート活字鋳造所でうまれた。その名称はオックスフォード大学の印刷所だったクラレンドン・プレス(大学の総長をつとめたクラレンドン伯爵を冠する)に由来するといわれている。このことから、オックスフォード大学が出版する辞書のために作られたという説もある。

 Pisces ピスケス *Kinkido version of Clarendon

第11回 サン・セリフ体

【A】19世紀

 19世紀の産業革命以降に、商業目的のディスプレイ用の活字書体として「ファット・フェイス体」「スラブ・セリフ体」「サン・セリフ体」が登場した。これらの多くは、当初は大きなサイズの木製活字であった。
 1816年にウィリアムス・キャズロン四世によって金属活字のサン・セリフ体が発表された。サン・セリフ体はスラブ・セリフ体からの変形とも見られるのだが、一九世紀のドイツでは「ステイン・クリフト(石の文字)」と呼んでいたことから、サン・セリフ体の起源を古代ギリシャの石碑文とする意見もある。

1 ドーリック(DORIC)

 サン・セリフ体が本格的に印刷用活字書体として使用されるのは一八三〇年代である。キャズロン活字鋳造所では古代ギリシャを意味する「ドーリック」と呼んでいた。ちなみにヴィンセント・フィギンス(1766―1844)が1832年に「サン・セリフ(SANS-SERIF)」と名をつけてから、サン・セリフ体として定着したようである。

2 アクチデンツ・グロテスク(AKZIDENZ GROTESK)

 ウイリアム・ソローグッド(?―1877)は「グロテスク」と名づけているが、1898年にドイツ・ベルリンのベルトルド活字鋳造所が製作した活字書体が「アクチデンツ・グロテスク」である。アクチデンツ・グロテスクは1906年までに四種類のウエイトが展開されている。

3 フランクリン・ゴシック(FRANKLIN GOTHIC)

 アメリカでは1837年にボストン活字鋳造所が「ゴシック」という名前をつけて、イギリスとの差異化をはかった。しかしながら「ゴシック」とは本来はブラック・レター体を意味するので、まぎらわしい呼び方である。アメリカ活字鋳造会社のモリス・フラー・ベントン(1872―1948)は1905年に「フランクリン・ゴシック」を発表している。

◇ Sagittarius サジタリウス *Kinkido version of Akzidenz Grotesk

【B】 20世紀初頭

1 エリック・ギル(1882―1940)

  イギリスでは、エドワード・ジョンストン(1872―1944)がロンドン鉄道局のために1916年にデザインしたサイン用のサン・セリフ体をデザインしている。このサン・セリフ体は19世紀サン・セリフ体とはことなり、インペリアル・キャピタルのプロポーションにもとづいた設計となっていた。
 つづいてジョンストンを師とあおいでいた碑文彫刻家のエリック・ギル(1882―1940)がモノタイプ社のスタンリー・モリスン(1889―1967)に見いだされて、モノタイプ社のためにサン・セリフ体「ギル・サン(GILL SANS)」を設計し、1928年に発表されている。

2 パウル・フリードリヒ・アウグスト・レンナー(1878―1948)

 ドイツでは、ドイツ工作連盟(ドイツ・ヴェルクブント)のメンバーだった、パウル・フリードリヒ・アウグスト・レンナー(1878―1948)による「フツーラ」と、ルドルフ・コッホ(1876―1934)による「カーベル」がある。
 パウル・レンナーの「フツーラ(FUTURA)」は、バウワー活字鋳造所との共同作業によって1927年に発表された。フツーラは幾何学的な考え方で制作された書体で、この時代の近代化された時代的精神を反映していた。

3 ヘルベルト・バイヤー(1900―85)

 1917年にデオ・ファン・ドゥースブルフ(1883―1931)やピート・モンドリアン(1872―1944)によってオランダでおこった「ディ・スティル」の運動が、ドイツに飛び火して、一九一九年に「ワイマール国立バウハウス」が設立された。
 1925年からバウハウスの印刷工房の教師となったヘルベルト・バイヤー(1900―85)は、大文字は権威的で時代の合理化にそぐわないとして、小文字だけで、しかも正円と直線で構成されたサン・セリフ体「ユニヴァーサル(UNIVERSAL)」を1925年に設計している。

  Capricornus カプリコーン *Kinkido version of Gill Sans

【C】 第二次世界大戦後

1 マックス・A・ミーディンガー(1910―80)

 第二次世界大戦後になると、サン・セリフ体はスイス・スタイルのデザイナーの支持を集めた。幾何学的なサン・セリフ体は敬遠され、一九世紀のふるい時代のサン・セリフが再使用されるようになっていった。バウワー活字鋳造所では1956年に「フォリオ(FOLIO)」を発表している。
 1957年にスイスのハース活字鋳造所から発売された「ノイエ・ハース・グロテスク」は、同社のタイプ・デザイナーであったマックス・A・ミーディンガー(1910―80)が再設計したもので、1960年にドイツのライノタイプ社の自動活字鋳植機に適応させられるのを契機に、ラテン語でスイスを意味する「ヘルヴェチカ(HELVETICA)」と改称した。

2 アドリアン・フルティガー(1928― )

 1957年にフランスのドベルニ・アンド・ベイニョ活字鋳造所から発売された「ユニヴァース(UNIVERS)」は、タイプ・デザイナー、アドリアン・フルティガー(1928― )によって制作された。当時20代後半という若さであった。
 本文用での使用を目的としたユニヴァースはミディアム・ウエイトが基準にされ、文字形象にも伝統的なローマン体の概念が取り入れられており、ゆったりとしたレター・スペースをもっている。
 ユニヴァースは誕生から40年を経過し、活字メーカーによるアレンジによって原型を失っていった。フルティガーは1997年に、ユニヴァースを全面改刻して「ライノタイプ・ユニヴァース」として再生させたのである。ファミリーも59種類に展開されている。

3 ヘルマン・ツァップ(1918― )

 1958年にドイツのステンペル活字鋳造所から発売された「オプティマ(OPTIMA)」は、ドイツのタイプ・デザイナー、ヘルマン・ツァップ(1918― )によってデザインされた。ツァップはカリグラファー、ブック・デザイナーとしても高く評価されている。
 オプティマはサン・セリフ体に分類されることが多い。しかしながら従来のサン・セリフ体とはことなっており、むしろローマン体を意図していたようである。したがって、あたらしいスタイルのジャンル「セリフレス・ローマン体」といったほうが適切だろう。
 ツァップは古代ローマやルネッサンスの碑文や写本にもとづいた活字書体を数多く設計している。それらにはカリグラフィの巧みな技術と活字の歴史にたいする豊富な知識が生かされているのである。

 Aquarius アクエリアス *Kinkido version of Helvetica

第12回 現代の欧字書体

1 ギュンター・ランゲ(1921― )

 ドイツ・ベルリンのベルトルド社のタイプ・ディレクターであったギュンター・ゲアハルト・ランゲ(1921― )は写真植字時代の活字書体設計の監督者として、詳細な研究と分析によって「ワルバウム」など古典書体の再生にあたりました。さらには「コンコード」「イマーゴ」などの新書体も多く開発しています。
「コンコード」は、アメリカのハリス・インタータイプ社との共同で1968年に制作されました。その名称は「調和」という意味があり、多目的な用途に応じた活字書体とされています。「イマーゴ」は一九八二年に制作されたサン・セリフ体で、「昆虫」という意味です。これらは古典書体の再生と同様に、「タイムズ・ニュー・ローマン」、「ユニヴァース」などにたいする分析ののちにうまれた書体だということができます。

2 オトル・アイヒャー(1922―1991)

 オトル・アイヒャー(1922―1991)は、ドイツを代表するグラフィック・デザイナーです。1953年に、妻とともにウルム造形大学を設立しました。スイスのマックス・ビルを初代学長に招き、1950年代から1960年代にかけて、ドイツにおけるデザイン教育の中心地となりました。アイヒャーは、1969年にはルフトハンザドイツ航空のコーポレイト・ブランディング、1972年のミュンヘン・オリンピックのデザイナーのリーダーとして知られています。
 1988年、アイヒャーは「ローティス(Rotis)」という活字書体を設計しました。アイヒャーの最初で最後の活字書体は、アイヒャーが事務所を構えていたドイツの地名ローティスにちなんで名付けられました。「ローティス」もまた、「タイムズ・ニュー・ローマン」と「ユニヴァース」から学んだということです。
 ローティスは、セリフとセミ・セリフ、サミ・サン、サン・セリフの4グリープから構成されています。ローティスの発表と同じくして、1988年にアメリカでサムナ・ストーン(1945― )による「ストーン」ファミリー、1990年にドイツのエリック・シュピーカーマン(1947― )による「FF・メタ」ファミリーが発売されています。いずれもローマン体とサン・セリフ体を包括するファミリーを提示しています。