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龍爪

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◆南宋・四川地方と四川刊本

  成都は中国・四川省の省都で、四川盆地の西部に位置し、古来より交通・経済の要衝でした。東漢のあとの三国(魏・呉・蜀)時代には蜀漢として劉備が治めました。また唐のあとの五代十国の時代には前蜀の都がおかれました。
 成都のある四川地方は木版印刷術の発祥地のひとつでした。唐代からの技術の蓄積があり、宋代においてもその技術が引き継がれました。とりわけ961年に成都で『大蔵経』の版木が彫られ、それは12年の歳月をかけて983年に完成しました。この版木は開封に移され、開封で印刷されたようです。
 北宋と金との戦争でも四川地方は戦禍をまぬがれたので、南宋による官刊本の復興に大きな貢献をはたしました。南宋の時代には、四川の出版業はしだいに眉山が発展してきました。眉山では、『眉山七史』をはじめ多くの刊本が印刷されました。
 四川刊本の特徴は文字サイズが大きいことで知られており、「蜀大字」とよばれています。その代表的なものが重要文化財『周礼』なのです。『周礼』には四川刊本の特徴である顔真卿書風がよくあらわれています。

◆顔真卿の書風と『周礼〔しゅらい〕』

 顔真卿(709―785)は、中国・唐の政治家です。長安(現在の西安)の人で、字〔あざな〕は清臣といいます。秘書監・顔師古(581―645)の五世の孫という名門の出身ですが、幼いころ父親をうしない苦学したということです。
 きわめて忠義心の厚い武将でした。節度使(軍職)の安禄山〔あんろくざん〕(705―757)と史思明〔ししめい〕(704ころ―761)が起こした安史の乱(755―763)では、平原太守(長官)だった顔真卿にも安禄山から平原・博平の二郡を守るよう命が下りましたが、ひそかに都に使いを出し、反乱にくみしない旨を奏上しました。第六代皇帝・玄宗(685―762 在位712―56)は、このような忠臣がいることにたいそう喜んだということです。 安禄山は大燕皇帝を自称するようになりましたが、ついには子の慶緒〔けいしよ〕に殺されました。史思明は再び反乱し、顔真卿はついに平原を逃れ、河北は史思明の支配になりました。顔真卿が地方を転々としているうち史思明一族は自滅し、8年にわたる内乱はピリオドを打ちました。
 安史の乱以降も唐はなおも不安定な状態であり、顔真卿の転勤は続きました。60歳代にはようやく豊かな任地に過ごすことができ、70歳のときに入朝し刑部尚書をかわきりに名誉ある老臣として重んじられました。
 しかしながら李希烈〔りきれつ〕が反乱を起こした時、その説得に派遣されました。顔真卿は降伏を勧めましたが李希烈は屈服せず、捕縛され留置されること2年、ついに殺されてしまいました。76歳でした。
 顔真卿は古来より能書家としても有名です。情熱的で熱血漢だったようですが、書も剛直な性格があふれる新風をひらき「顔体」と称されます。「多宝塔碑」(752)「顔氏家廟碑」(780)などが代表作とされます。
「顔氏家廟碑」は西安碑林博物館にあります。顔真卿自身の撰文ならびに書で、顔真卿が七二歳のときの晩年の作です。父の惟貞のために廟をつくり、碑を建てて顔家の履歴をしるしたもので、碑文は碑の四面に刻され、亀形の台座をもった堂々たる巨碑です。 「多宝塔碑」は顔真卿四四歳の作です。南陽の岑□〔しんくん〕の撰文、河南の史華〔しか〕の鐫刻です。長安の千福寺に僧・楚金〔そきん〕(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命により記したものです。
 この「多宝塔碑」は、もともと千福寺に建てられましたが、明代に西安の府学に移され、現在は西安碑林博物館に保管、展示されています。また、東京国立博物館所蔵の拓本は、北宋代の精拓だそうです。
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『周礼〔しゅらい〕』は、中国の儒教教典のひとつです。周王朝の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記述したものです。六官とは冢宰〔ちようさい〕・司徒・宗伯・司馬・司寇〔しこう〕・司空ですが、そのうち冬官は失われたため「考工記」で補われています。西周の周公旦の作と伝えられますが、成立は戦国時代以降のものといわれ、その成立については議論のあるところです。
 静嘉堂文庫所蔵の『周礼』は、東漢の鄭玄〔ていげん〕(127―200)が注釈をほどこしたものです。蜀(現在の四川省)の刊本は、蜀大字本として名高いものです。孝宗(1162―88)のころの刊行と思われます。巻第九・巻第十の二巻のみの残本ですが、同種の本はほかに知られていません。
 この『周礼』には多くの印記がありますが、とりわけめだつのが陸心源の45歳の小像入りの蔵書印です。1907年(明治40)、清の陸心源の遺書として漢籍4,172部、43,996冊が購入されました。
 陸心源(1834―94)は帰安(浙江省呉興県)の人で、字は剛甫、在斎と号しました。武人として群盗討伐に功を挙げたといわれますが、その面目はむしろ稀書珍籍の蒐集にあり、清末四大蔵書家のひとりとして知られています。  没後、その子の陸樹藩は遺書の保持になやみ、ひそかに使者をわが国に送って売却をはかりました。岩崎彌之助は1906年(明治39)春に島田斡を清におくって調査させました。翌年五月に文庫長の重野安繹(1827―1910)は訪欧に際して陸樹藩と上海で会い約定しました。さっそく文庫員の小沢隆八・寺田弘(望南)を上海に派遣して点検させ、すぐさま 舶載しました。
 重野安繹は、幕末・明治期の歴史学者で薩摩〔さつま〕の人です。藩校造士館、江戸昌平黌〔しようへいこう〕に学び、文部省修史局員・東大教授・元老院議官・貴族院議員などを歴任しました。東大に国史科を設置、実証主義に基づいた史学の基礎を築きました。  この陸心源の遺書の舶載は秘密裡におこなわれましたが、事後にそのことを知った中国の学会に大きな衝撃をあたえたそうです。

◆『周礼』の字様と「多宝塔碑」の書風を比較する

『周礼』などの四川刊本は、「多宝塔碑」「顔氏家廟碑」をはじめとする顔真卿の書風の影響を受けています。このうち「顔氏家廟碑」などの六〇―七〇歳代の作はいわゆる顔真卿の個性が強くなりすぎているので、四〇歳代の作である「多宝塔碑」を取りあげ、『周礼』の字様と比較することにします。「多宝塔碑」は比較的おだやかではありますが、初唐の書風とは著しく異り、豊満で剛健なイメージが形成されています。

◇筆法
「多宝塔碑」の筆法について、『中国法書ガイド40 多宝塔碑』(1988 二玄社)のなかの「多宝塔碑の基本点画」で、樽本樹邨氏は次のように書いています。

 顔真卿の書を評して「蚕頭燕尾〔さんとうえんび〕」という話があります。蚕頭とは起筆の頭が蚕の頭のように円くなっていること、つまり筆先をかくして書く方法で蔵鋒になっていることをいい、燕尾とは右のハネの収筆が燕の尾の先のように二つに分かれていることでしょう。この筆法は中期頃の作によくみられますが、常に蔵鋒で紙背につきやぶるような鋭い線で表現したいという考えがあったようです。

『周礼』の力強い字様は、横画の収筆や曲折に「竜爪」とよばれる特徴が強調されています。これは起筆などにもあてはまります。「多宝塔碑」には「竜爪」ほどの特徴は見られませんが、唐代初期の楷書にはないどっしりとした収筆です。
 縦画の起筆にみられる「蚕頭」の筆法は、『周礼』においてはさらに強靱になり、「竜爪」に相対するような筆法になっています。また「多宝塔碑」の縦画は横画よりもかなり太くなっていますが、これは『周礼』も同様です。「多宝塔碑」にはまだ「燕尾」の磔法は強く見られません。それでも唐代初期の楷書よりはるかに鋭くなっているようです。躍法は唐代初期の楷書が短く強いのに比べ、「多宝塔碑」では強く鋭くなっています。
 このように「多宝塔碑」の「蚕頭燕尾」といわれる筆法は、『周礼』にいたって「竜爪」とよばれる刊本字様へと変化したといえます。これは工芸の文字として整理がすすんだことをあらわしていますが、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえます。

◇結法
 前述の『中国法書ガイド40 多宝塔碑』のなかの「多宝塔碑の書法について」で石橋鯉城氏は北魏・初唐のさまざまな楷書との比較によって、「多宝塔碑」の結法をあきらかにしようとしています。
 一字一字の結構は、唐代初期の楷書にくらべると少し正方形で抱懐が広くなっています。筆画の長短差を抑えて正方形に組み込もうとしながら、より暖かさが感じられるところに最大の特徴があります。
 主要な横画ではほぼ10度の右肩上がりで「九成宮醴泉銘」と同じくらいの傾斜角がありますが、横画の収筆が大きく下がっているために安定感があります。同じように『周礼』を調べてみると、刊本字様ということで、少し角度を抑えているようですが、やはり「竜爪」の筆法が作用しているようです。
 もうひとつの特徴として、向勢であることがあげられます。向勢とは、例えば「同」の外側の縦画が互いに向き合う結法です。向勢の場合、抱懐は必然的に広くなります。 これらは『周礼』にも受け継がれています。 「多宝塔碑」は、横画が細く、縦画が太くなっています。つまり筆画のコントラストがいくぶん強くなっています。『周礼』も同様で、これにより雄大で力強い書風が形成されています。
 なお、顔真卿の書風の変遷については、中央美術学園・書道造形科編『天円地方――美しき書のモデュールたち』(1988 中央美術学園出版局)で「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」とを比較検討しています。それによると「顔氏家廟碑」になってより正方形を意識した結構になっている例がありますが、むしろ筆法のちがいによってイメージが変わって見えるということのようです。

◇章法
「多宝塔碑」は、「九成宮醴泉銘」とくらべると字間は狭いようです。抱懐が広くなっているので「九成宮醴泉銘」ほどには余白をとらなくてもいいということでしょう。碑刻では、碁盤の目のように、行だけでなく横のラインもきちんと揃えています。
『周礼』は「多宝塔碑」よりさらに詰まっています。文字と文字が接触するほどきつくなっています。また16字詰めになってはいますが、文字の大きさが画数によって異なっています。字間を均等にしているために横のラインはそろっていません。 「九成宮醴泉銘」と 『姓解』との違いと同様に、「多宝塔碑」が字間ベタ組みとすれば、『周礼』のほうはプロポーショナル組みということになるのでしょう。これもまた碑刻と刊本との違い、すなわち文字の大きさや読むときの状態の違いによるものでしょう。


【活字書体「龍爪」誕生】

『周礼』巻第九の第一頁を、デジタル・タイプによって再現してみることにしました。全キャラクターのうち、もっとも大きい文字がおさまるようにボディを仮に設定しました。
 そのうえで、いかなる組み合わせになっても破綻がないように、字面サイズを揃えておかなければなりません。また極端な字間によって変形しているところもあるので、一字一字が単独でもバランスがとれるように修整を施しました。
 双鉤工程においては、最初の段階では『周礼』巻第九の第一頁の文字を下敷きにしていますが、それだけでは細部に執着してしまいがちです。頻繁に出力して、その影印と見比べることを忘れないようにしました。そのうえで、太さを揃えたり、大きさを揃えたりといった活字書体としての統一性をはかりました。
 この活字書体は本文用として考えましたので、『周礼』よりもかなり小サイズで使われることになります。そうなると下敷きの文字の横画や掠法の先端部分などでは細すぎて印刷の工程で無くなってしまうことが考えられます。そのために、横画や掠法の先端部分などを調整しました。
 この書体の最大の特徴である「竜爪」はできるだけ尊重しましたが、一般的な使用に耐えられるように、いくぶん抑え気味になるようにしました。少しの解釈の違いでまったく異なる書体になるので、方向性を確かめながらすすめました。
 日本語の文章を組むには、ここにはない多くの字種を揃えていかなければなりません。そのためには、『周礼』の序文にあらわれているキャラクターの筆法・結法をしっかり把握して、それにあわせて、数千字におよぶキャラクターを作成していきます。
 その際の問題点として、偏と旁などの空間処理があげられます。狭くすると引き締まった感じになって浙江刊本に近くなりすぎ、さりとて広くしすぎると散漫な感じになってしまうからです。